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また、この「二箇の諌暁」について、大事なことが三つあります。
一つ目は、
爾前経で成仏からもっとも遠いとされていた一闡提である悪人に、
成仏が約束されたことと、社会的にも宗教的にも差別されていた女人の成仏が約束されたことです。
これによって、法華経が
「悪世に生きる一人一人の成仏の道を開く経典」であることが明らかになりました。
「一闡提」とは、簡単にいうと悟りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生で、
正法を信じないで誹謗し、誹謗の重罪を悔い改めない者のことです。
これは会員であるないは関係ありません。
「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず」(二二五頁)
――たとえ学会員と名乗っていても、求道心がなく、
境涯革命できるチャンスがあっても、その挑戦を避けて御本尊や学会に文句をいい、
そのくせ困った時だけ、今までの自分の行いを反省することもなく、
御本尊にすがり、自分のために会員を利用する――こういう人も一闡提といえるでしょう。
二つ目は、
万人の成仏を実現する法理的裏づけとしての「一念三千の成仏」です。
これは法華経にしか見られない法理です。
一念三千の成仏とは、すべての人々の生命(十界)に備わる仏界を開く成仏のことです。
いわゆる仏界即九界、九界即仏界という原理です。
その変革の力として、極悪をも極善に転換しうる「変毒為薬」の可能性(悪人成仏)が示され、
凡夫の身を改めずに成仏する「即身成仏」の現証(女人成仏・竜女)が明かされました。
法華経の行者とは、自らが「一念三千の成仏を体現した人」ということでもあるのです。
三つ目は、
悪世に生きる人々を一人も残さず成仏させるという
「悪人成仏」と「女人成仏」が説かれたことによって、
すべての父母の成仏の道が開かれたことです。
大聖人は、法華経こそ
「父母への報恩」を可能にする「内典の孝経」(二二三頁)であると述べていることです。
仏法哲学に裏づけられた報恩の心と実践は、
人間社会の基盤であり、相互理解の信頼の絆にもなります。
法華経の行者とは、
社会の平和と繁栄を築くための根本の戦いを貫く「立正安国の実践者」なのです。
これが「五箇の鳳詔」の意義です。
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