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開目抄には
「我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん。
つたなき者のならひは約束せし事を、まことの時はわするるなるべし。
妻子を不便とをもうゆへ現身にわかれん事をなげくらん。
多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。
我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」(二三四頁)
――弟子に何回もそのことを教えているのに、愚かな弟子は「いざ」という時に忘れてしまう。
妻子や家族をふびんと思うゆえに、現実の大難で妻子と別れることを歎いているであろう。
しかしよく考えてみよ。
無始以来いつも生まれてきては、親しんでいた妻子とわが心に予期してみずから別れたのか、
それとも仏法のために別れたのか、いつも同じ別れではないか。
今生において、まず自分が法華経の信心を最後まで破らずに即身成仏し、
その境地に立って妻子を導きなさい。これこそ真にわが身も妻子も家族も、
絶対に幸福になる唯一の道ではないか――とある通りです。
続いて、
「此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来、日本国当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」(二二三頁)
――この勧持品は、釈迦・多宝・十方の諸仏が、未来の日本国の今の世を映された明鏡である。
師弟不二の形見の書と見るべきである――と訴えています。
開目抄全体に貫かれている精神は「師弟不二の誓願に立て」ということなのです。
・・・・・・明日につづく。
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