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【開目抄の指導原理について】12/31

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時51分15秒
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  私たちに置き換えてみれば、
「夫が信心しない」「子供が信心しない」「自分の問題に向き合うのは辛い」――
だから学会活動だけに専念してがんばろう。

そうすれば、それらに向き合わなくても、
いつかは解決しているだろうという「逃避」の一念です。

御書には「此を去つて彼に行くには非ざるなり」(七八一頁)とあります。
自分の足下である家族の課題や、自身の悩み、
それらと向き合うのは確かに辛くて苦しいかもしれません。

しかしその問題解決のために、真正面から向き合い、
具体的に取り組まなければ、本当の宿命転換はありません。
それらは、自分の悩みを避け、挑む勇気がないから学会活動に逃げているだけなのです。

池田先生は
「困難から逃げ、鍛えを避けるところには、決して向上も成長もない。
これは、まさに大聖人の御自身の体験に基づく大確信であり、成仏の修行の永遠の真実です」
(池田大作全集三十二巻)と指導されています。

またこの二つに代表される「弟子の決意」は、
見方を変えれば「総論と各論」の関係と取れなくもありません。

学会でいえば、大勢を相手にした会合だけでは、
全員が心の底から納得し、決意することは難しい。
だからこそ一人一人への細やかな配慮と激励が重要なのです。

むしろ、それが「主」です。
そのための組織が「従」です。

学会はこの原則を貫いてきたからこそ大発展したのだと思います。

牧口先生は「信者ではなく行者であれ」(池田大作全集二十九巻)と叫ばれ、
池田先生は「一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団の在り方では、
二十一世紀を目前にした現代社会にはとうてい適応できないことは確か」(同巻)と指導されました。

さらに弟子の決意は続きます。
「もし師匠が我々に、法華経を持ち弘めよとご命令になったら、
世尊の教え通りに、この法華経を弘めよう」(妙法蓮華経四一六頁)――と。

ところが世尊は黙然として黙っています。何も命令はしない。
我々はどうしたらいいんだと弟子たちは戸惑ってしまいます。

ここで弟子たちは心に決めるのです。
「世尊のお心にお応えしよう。自身の本来の願いに生きよう」(妙法蓮華経四一七頁)、

そして声を出して誓います。
「私たちは世尊が入滅された後、悪世の中で、十方世界に、この法華経を弘めてまいります」(同頁)

――広宣流布のためなら何処でも行く――。これが師弟不二の行動です。
 
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