|
では法華経の行者に、これらの障魔が競うのは何が原因かというと、
それは大聖人の仰せ通りに、師匠の指導通りに、組織悪と戦い折伏を行じたからです。
しかもこの第一(俗衆)と第二(道門)の増上慢は、
折伏の度合いによってその現れ方は変わってきます。
友人の間違った思想を正し、会員の我見の信心を諌め、
正しい仏法を説こうとすれば、たちまちこの俗衆増上慢は姿を現し闘争が始まります。
相手の悪思想を責めなければ、俗衆増上慢は現れません。
そしてさらに強く責めれば、仏説のごとく非難や迫害の的となるのです。
しかしこの段階では、まだ第二の道門増上慢は出てきません。
第二の道門増上慢が現れるのは、組織悪との闘争を決意し、
それを強く破折した瞬間から始まります。
もともと道門増上慢は、自分や家族のことしか考えない、保身と心諂曲が特徴です。
自分の陣地が脅かされない限り動きません。
それでも強く責めて、ひとたび自分の陣地に踏み込まれれば、
権威にものを言わせて、恫喝、査問、左遷等と迫害を加えてきます。
所詮、彼等の本質は、次に出てくる第三(僣聖)の奴隷であり、手先なのです。
ここまで俗衆増上慢と道門増上慢を見てきましたが、
この「無智」と「邪智」からくる迫害者は、どちらかというと目に見えてわかりやすいと思います。
無智な人と組織論・信心論の対話をすれば、すぐに無智だと見抜けます。
邪智の人は、露骨に行動に表われますから、これもすぐにわかります。
しかし、第三の僣聖増上慢はわかりにくい。
なぜかといえば、心は「悪心」ゆえに迫害をするのですが、
表面上は聖人君子の様相を呈しているからです。
だから「僣聖」の正体を民衆や会員に暴くことが大事なのです。
一部の人が目覚めただけでは社会は変わりません。
行動を起こして僣聖増上慢をあぶり出すしかないのです。
妙楽大師も
「第三の者(僣聖増上慢)が一番悪質である。
より一層、正体を見抜きにくいからである」(二二九頁)と述べています。
「僣聖」とは、《聖者を装う》という意味です。
では、第三の僣聖増上慢を見ていきましょう。
|
|