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大聖人は、これらの「三類の強敵」を全部、
現実に呼び起こし、すべてを乗り越えてきました。
その大勝利宣言が「竜口までもかちぬ」(八四三頁)との断言です。
この特徴を学会に置き換えたら、どうなるでしょうか。
①末端会員のところには家庭訪問に行かず、スーツをビシッと着て幹部面を装う。
②自分は毎日戦っていると言って、未活動の人を軽蔑しバカにする。
③自分の名誉だけを考え、その手柄を貪るためだけに会員に指導する。
④多くの会員さんから、何の根拠もないのに「あの人はすごい」と思われている。
⑤師匠の指導通りに実践している人に、悪心を抱いて、種々の邪魔をする。
⑥自分の役職の権威を利用して、本物の弟子を貶める。
⑦上位の人に、有りもしない噂話を作り、事実を曲げてウソの報告をする。
⑧「彼は邪見の人であり、仏法にはない我見の教義を説いている」と非難する。
となるでしょうか。
貴方はどうですか、
このような人に迫害された方ですか、迫害した方ですか。
貴方の近くにこのような人は居ますか、居ませんか。
一度、チェックしてみてはどうでしょうか。
さて、このように大聖人は開目抄の中で、
聖者を装う僣聖増上慢の仮面を暴いていきました。
僭聖の一番の特徴は「人間を軽賤する」ということです。
これはすべての人間に仏界があるという生命尊厳の法華経から見れば、
完全な「法華経の行者の敵」になります。
また「自分の利益に執着して、それを貪るために在家の人々に法を説いて、
世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです」(二二四頁)とありますが、
自分が《もうける》ために、仏法を利用するのが僣聖増上慢で、
そのくせ世間の人々からは「聖者」のように仰がれている。
苦悩の人を助けようとか、広宣流布のために命を捧げていこうとする心もない。
結局、宗教利用の偽善者です。
大聖人は自分の名聞名利のために仏法を説く人間を「食法がき」(一一一一頁)と述べています。
私たち学会の世界でいえば、うまく泳いでいこう、人から尊敬されよう、
人気を得よう、喝采を浴びよう――。そういう卑しい心といえるでしょう。
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