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次に、
「この人は邪悪な心を抱いて、常に世俗のことばかり考え、
山林で修行している立場を表に出して、
私たちの過失を上げつらうことに余念がない」(同頁)とは、
自分に敵対する法華経の行者が出現すると、ありもしない過失を捏造して言い立てるのです。
偽善者にとって一番恐ろしいのは、自分たちの実像が暴かれることです。
だから、真実を叫ぶ法華経の行者が「脅威」となるのです。
そこで「ウソ」で法華経の行者を亡き者にしようとします。
そしてどんなウソを言うのか、そのやり方も説いています。
それが
「常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、
高僧や社会の有力者およびその他の僧たちに向かって、私たちを誹謗し、
悪人であると説き、邪義を唱える人であり、外道の論を説いていると訴えるでしょう」(同頁)というものです。
つまり「讒言」と「作り話」です。
しかしその内容は、自分のことを言っているにすぎません。
自分の醜い実像をそのまま法華経の行者の姿だと「すりかえ」て、悪口罵詈しているだけです。
それは自分の「影」に向かって悪口を言っているようなものです。
ある意味でこの偽善者は
「自分は本物ではない、仮面をかぶって生きている」ということを心のどこかで知っているわけです。
しかし増上慢の心が強いために、
自分の醜い実像を正面から受け入れ認めることはどうしてもできない。
そんな中で、本物の法華経の行者が現れると、いやでも自分の卑怯な姿を見せつけられてしまう。
それが偽善者には耐えられない。
だから「法華経の行者さえいなければ・・・」と悪心を抱き、嫉妬して狂乱してしまう。
そして最後は、権力と結びついて、法華経の行者を抹殺しようと図っていくのです。
しかもこの僣聖増上慢は、法華経の行者と直接、対決するのではなく、
つねに裏で道門増上慢と俗衆増上慢を手先として、これらの者をあやつろうとします。
それが僣聖増上慢の「くせ」です。
仮面をかぶった生き方が身についているために、その本質は臆病なのです。
そこで世間に向かって、また権力者や社会の有力者に対して、法華経の行者の誹謗中傷を繰り返すのです。
この「権力の魔性」の方程式は、西洋の魔女裁判や異端審問でも同様に見られます。
聖職者は直接、手を下さない。
密告と拷問によって、無理やり「死刑」と定め、しかも自分は直接に死刑と宣告したり、処刑したりしない。
その犠牲者を世俗的権力の手に渡すだけです。自分は絶対に手を汚さない。偽善者は、どこまでいっても偽善者です。
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