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権力者に働きかけて大聖人を死罪に及ぼそうとし、
一門を攪乱した「破和合僧の張本人――その代表格が真言律宗の僧・極楽寺良観である。
もともと良観は、北条幕府の権力者の外護を得て、世間の尊崇を受けていた。
ところが、大聖人が出現され、良観の邪な本質が明らかになってしまった。
人々の自分への尊敬をどうやって保つか彼は焦った。
そこで幕府の要人と結び、裏から動かして、大聖人を亡き者にせんとした。
生き仏のごとく仰がれてはいたが、野心、名聞のためには手段を選ばない、冷酷な人物であった。
まさに、法華経に予言された「僭聖増上慢」の姿である。
大聖人は、良観の実態を「持戒げなるが大誑惑なる」(御書一一五八頁)
――仏法の諸戒を持っているようには見えるが、世間の人を大きくあざむき、まどわしている――と指摘されている。
さらに大聖人は、池上宗長への御状の中で、このように述べられている。
「これは・とによせ・かくによせて・わどのばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反の念仏をすすめて人人の内をせきて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり」(御書一〇九三頁)
――これは、何かとことによせて、持斎(律宗等の僧をさす)・念仏者たちがさまざまに画策して、
あなたたちを退転させるために、まず親をそそのかして悪道に堕としている。
両火房(良観)は百万遍の念仏称名をすすめ、人々の仲を裂いて、法華経の仏種を断とうと謀っていると聞いている――。
「三類の強敵」は、人々の心を言葉たくみに動揺させ、その仲を裂いて、成仏への道、
広布の流れを断絶させようとするものであることを、私どもに教えてくださっていると拝される。
「立正安国論」には、次のように仰せである。
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(御書二一頁)
――悪侶を戒めずして、どうして善事を成就できようか。できはしない――。
安国論は、「主人」(大聖人)と「客」との対話によって進められていくが、
この御文は、客が「これほど仏教が栄えているのに、どうして仏教が滅びたと言うのか」と
ただしたことに答えて述べられた部分である。
大聖人は、主人の言葉として
「なるほど、寺院等の建物も多く、経も多い。僧侶もたくさんいる。
しかし、僧が名利に執着し、心に嫉妬をいだいて堕落している」(趣意)と答えられ、
これらの者について「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」(御書二一頁)との涅槃経の文を引いておられる。
すなわち、形は出家のようであっても、実際には「僧侶と思ってはならない」との仰せである。
そして、こうした「悪侶」を戒めず、放置しておけば、仏法は滅びると主張されている。
また《ニセ僧侶》である「悪侶」とは、安国論では法然をさすが、
「下山御消息」(御書三四八頁)では、良観のことであるとされている。
「一闡提」「悪侶」「三障四魔」――さまざまに表現されるが、仏法には《敵》がいるのである。
法華経には「三類の強敵」と説かれる。
《悪との戦い》なくして《善の実現》はない。
一切衆生に等しく仏性があると説いたのが法華経である。
その理念を実現化する道を大難のなか示してくださったのが日蓮大聖人である。
その「道」を全世界の人々に伝え弘めているのが、私どもである。
法華経の敵は、こうした「一切の人々を平等に仏にしゆく戦い」を妨げる。
極善に敵対するゆえに極悪の行為となる。
この極悪と戦い、打ち破ってこそ、真の極善の人生となる。
断じて《戦い》を忘れてはならない。
断じて《勇気》と《英知》の利剣を手放してはならない。
断じて《勝利の歴史》を残さねばならない。
正法のために、人類のために、自分自身のために。
【霧ヶ峰・第三回研修会 平成三年七月二十七日(全集七十七巻)】
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