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【開目抄の指導原理について】22/31

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時27分53秒
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  大聖人は
「三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし。
一眼の亀の浮木に値うなるべし」(二三〇頁)と弟子たちに叫ばれました。

「法」といっても目には見えません。
善なる法は、法華経の行者の戦う「実践の振る舞い」の中に顕れます。

そしてその三類の強敵を顕し、それと戦って勝利した師匠と出会うことは稀なのです。

真実の仏法指導者には会いがたい。

師弟は、どこまでも弟子が師を求め抜く実践の中にしかありません。
自身が求め抜いた時に、戦う師匠の偉大な姿が、明確に浮かび上がってくるのだと思います。

「開目」とは、
三類の強敵と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ、師を求め、師と共に、
魔性と戦い抜く自分自身に目覚めよ、と弟子の闘争を呼びかけられた書でもあるのです。

もっというと、
学会総体に対しての三類の強敵は「誰」なのか、
自分自身に対しての三類の強敵は「誰」なのかを
経文に照らして明確にし、会員一人一人がそれぞれの立場に応じて、
戦い勝つ以外に「創価学会の発迹顕本」も「自分の発迹顕本」もあり得ないということです。

二〇一三年の夏、《黄金の三年》の開幕にあたり、池田先生は
「深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む」と指導されました。

これは、大聖人の発迹顕本に目を開き、創価三代の発迹顕本に目を開き、
弟子よ「三類の強敵との闘争を開始せよ」という意味だと私は捉えています。

しかし、これに目覚めた仏法指導者や、弟子たちを、
絶対に認めたくないのが、権力の魔性と化した僣聖増上慢です。

大聖人は続いて、この僣聖増上慢がどんな迫害をしてくるのかを具体的に考察していきます。
 
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