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そして「事の心を案ずるに」(同頁)
――この問題の本質について考えてみよう――と大聖人自身の胸中を明かされていくのです。
大聖人は、この議題に入る前提として
「大難を受けてこそ法華経の行者である」ことを過去の事例を挙げて改めて確認されます。
そのうえで「事の心を案ずるに」と述べられ、
法華経の行者自身が大難を受け、諸天善神の加護がない理由、
また、迫害者に現罰が現れない理由を三点にわたって説明されていきます。
その三点を要約すると、
①
法華経の行者が難を受けているのに諸天の加護がないのは、
法華経の行者自身の過去世に、謗法の罪業がある場合であって、
法華経の行者に過去世の罪業がない場合は、迫害者に直ちに現罰がある。
②
来世には必ず地獄に堕ちると決まっている一闡提には、
今生で重罪を犯しても現罰としては現れない。
③
一国謗法のゆえに諸天善神が国を去ってしまっているために、
諸天善神の加護が現れない。
というものです。
本文は
「前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に・・・・立正安国論にかんがへたるがごとし」(二三一頁)のところです。
では見ていきましょう。
まず、①の法華経の行者の宿業ということですが、
「法華経の行者を迫害する者には現罰がある」と法華経に説かれていますが、
それは法華経の行者の過去世に「法華誹謗」の罪がない場合であるとも言っています。
たとえ法華経の行者であっても、過去世に法華誹謗があれば、
その罪の報いとして迫害を受けるのです。
「不軽品に云く『其の罪畢已』等云云」とあります。
不軽菩薩も自身の罪業のために大難を受けたのであり事実において、経文では不軽菩薩自身が
「其罪畢已」するまでは、不軽菩薩を迫害した四衆に現罰があったとは経文に説かれていません。
また
「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」とあります。
仏法は因果の理法です。
現在の果報は過去の業因によりますが、現在の因によって未来の果報があります。
つまり、今を決定づけたのは過去世の因ですが、同時に、未来を決定づけるのは今この瞬間です。
大聖人はここで、過去にどのような業因があろうとも、
現在の因によって未来の果報を得ていくことができること(現当二世の法門)を強調しています。
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