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大聖人が宿業を説くのは、あくまでも宿業は必ず転換できることを示すためです。
もう一つは、大難の因を自分自身の中に見いだしていくという「内省」の考え方です。
これは、宿命転換を可能にするためには、どうしても必要な考え方なのです。
良い結果は自分の努力、悪い結果は他人や環境のせい――このような考え方は日蓮仏法にはありません。
良い結果も、悪い結果も、すべてその因は自分の中にある、という内省が日蓮仏法の思想です。
また、大聖人はここで「罰」の問題についても、
罪なき者を迫害すれば現罰があるとされていますが、
自分以外の何か神のような存在が罰を与えるのではなく、
罰は本人の行為の結果であり、因果の法則に則っていると説いています。
次は、②の地獄に堕ちると決まっている一闡提ですが、結論からいうと、
過去の罪がある法華経の行者を迫害する者に「現罰がない」といっても、
全く罰がないということではありません。
それは即座に現れる現罰がないだけであって、
見えない冥罰が厳としてあるのです。それが一闡提です。
「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり」というものです。
迫害者自身が、必ず無間地獄に堕ちることが決まっている場合は、
目に見えて現れる現罰はないと述べています。
他の御書には
「牢獄に入って死罪に決まった者が、その牢獄の中でどんな悪事を行っても
死罪を行うことが決まっているので、新たな罪に問われることはない。
しかし、許されることがある者は、獄中で悪事を行った時は、
いましめられるようなものである」(一〇五四頁)と示されています。
開目抄では、涅槃経を引かれて
「相当な大悪人でも、さまざまなことを縁として心をひるがえし悔い改めることがあるが、
一闡提人はそれが全くない」ことを指摘しています。
無明に覆われた暗い生命は、自分も含めて、
すべての人々に仏性があるということを信じることができません。
だから自分が犯している謗法にも麻痺し、
取り返しのつかない地獄の淵に向かっていかざるを得ません。
現罰がないといっても、心の中は仏性を信じられないから、
根本的に安心することができずに不安にさいなまれています。
その心の不安によって生命が蝕まれていくのです。
現罰が出ていなくても、すでに冥罰は受けているのです。
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