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長文ですが、大事なところなので核心部分を通解で引用します。
《次々と大難に遭う大聖人が本当に法華経の行者であるのか、
法華経の行者であるならば何故に諸天の加護がないのか、
という人々の疑問について経文と道理に照らして種々、検討してきたが》
「結局は、天が私を捨てるのであれば捨てるがよい。
多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。
身命をなげうって戦うのみである」(二三二頁)
――と決意を述べ、
「舎利弗が過去世に、六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、
眼を乞うバラモンの責めに耐えられなかったからである。
久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に縁した者が、
退転して無間地獄に堕ち、長遠の時間を経なければならなかったのも、
悪知識に会って惑わされたからである。
善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである」(同頁)
――と退転の恐ろしさを語り、
「大願を立てよう。『法華経を捨てて無量義経を信じて後生を過ごすならば、
日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などの
種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでないかぎり、
そのような誘惑や脅しに決して動かされることはない。
その他のどんな大難も風の前の塵のように吹き払ってしまおう。
『日本の柱・日本の眼目・日本の大船』と誓った大誓願を決して破らない」(同頁)
――と大誓願の師子吼を宣言しました。
開目抄は「日蓮の大願に目を開け」「日蓮の発迹顕本に目を開け」というのが根本趣旨です。
日蓮大聖人にとって、諸天に守られるかどうかは二義的な問題なのです。
悪世末法に仏と同じ「大誓願」に生きる人こそが、真正の仏の弟子であり、
誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれていくと訴えているのです。
開目抄の中で大聖人は、なにも「自分が仏だ」と自慢し誇っているわけではありません。
大聖人自身の「大願」を明かして、
弟子たちに「日蓮と同じ勝利の大道を歩め」と教えているのです。
大願は、強き自分をつくるからです。
誓願とは、弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えなのだと思います。
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