|
大聖人は「末法万年なり」(一四九五頁)と言われました。
ゆえに、大聖人の時代から七百年を経た現代においても、
大聖人が捉えた「末法」という時代性の本質は、何も変わっていないのです。
あらゆるものが争いへと流されていく「末法」という時代性の中で
「争い」を「調和」に転換する原動力は「自他の仏性を信じる」強い信念と、
その信念の実践化としての「人を敬う」行動以外にありません。
この信念と行動の拡大が「広宣流布」です。
「一代の肝心は法華経、
法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。
不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、
教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(一一七四頁)とある通り、
不軽菩薩の実践は、法華経に説かれる「人間主義」の模範です。
開目抄に示された指導原理は「誓願」を持ち、
「法」に生き抜く真実の宗教のあり方を教え、
真実の人間の生き方(師弟不二の実践)に万人が目覚めていく「開目」の本義を教えています。
その師弟不二の誓いの結晶ともいえる創価学会のシンボルの塔が、
「師匠から弟子への贈り物」と池田先生が言われた「広宣流布大誓堂」です。
昭和三十九年六月三十日、学生部第七回総会で池田先生は次のように指導されています。
「どんなものでも終着点がある。
帰趨すべきひとつの終着としてのしるしがなくてはならない。
と同じように、宗教においても、その終着点が必要です。
戸田先生は『本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。
カスのようなものだ』このように何度もおおせになっておりました。
その本質を、皆さん方もよく知っていただきたいと思います。
戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。
実質は全大衆がしあわせになることであります。
その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。
したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」
(会長講演集第十一巻二一六頁)――と。
肝心なのは形式や建物や伝統ではなく、
師匠の心を伝え残す「伝持の人」が大事なのです。
さらに池田先生は
「日蓮仏法は『人間宗』です。
大乗仏教の精髄である法華経が開いた『人間の宗教』の大道を確立され、
全人類の幸福と平和実現への方途を未来に残してくださったのが日蓮大聖人です」
(池田大作全集三十四巻)と断言されました。
人間を抑圧するあらゆる勢力と戦い、勝ち抜いていくのが池田先生の真正の弟子なのです。
最後に、池田先生が師子吼された指導の一句を記して終わります。
――私が追求しているのは「本物の人間」です。「本物の人生」です――
(池田大作全集三十巻)
― 完 ―
|
|