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私もカエル様と同様、ちょうど自力と他力について思索していたところですので、その思索の一端を述べさせていただきます。
一般的に自力とは、自分を信じ、決意し、行動し、結果を出すこと
学会員にとっての自力とは、御本尊を信じ、決意し、「題目を唱え」、行動し、結果を出すこと
仏法ではこのように立て分けます
自力本願:信力・行力
他力本願:仏力・法力
信力、行力とは御本尊を信じて(信力)、題目を唱える(行力)ことですが、行力の中には広義の意味においては行動も含まれます。
御本尊を信じるとは、自分を信じることを意味します。南無とは100%ということですので、100%自分を信じること。そして仏と御本尊と自分自身、まったく差別がないとの確信の元、題目を唱えることが生死一大事血脈(これしか大事なことはない)であると御書に記されています。
信心している人もしていない人も、基本的には自力本願で生きています
違いは題目を唱えているか否かでしかありません
しかしこれがとてつもない違いを生み出します
題目というのは、仏力、法力を顕す言葉なのです
仏力、法力は出そうと思って出るものではありません
「仏力、法力よ出でよ!」と叫んだところで出てきません。故に他力ということになります
信力、行力に感応して出てくる力が仏力、法力ということです
仏力とは、人々を救っていく力であり、邪な祈りや、人を不幸にする祈りには感応しません。また安易な祈りである「宝くじよ当たれ」系の願い等は、かえって自分が不幸になる要素の強い祈りなので仏力の作用によってかなわない可能性が大です。
法力とは、妙法の無限の力であり、諸天が護るという表現があるとおり、宇宙のすべてが自分の味方となり機能すると考えて差し支えありません。
仏力、法力に関してはこちらからはコントロールできるものではないので、他力本願という位置づけになるのです。
信力、行力なくして、仏力、法力なし
たとえば何か問題が起きた時に、絶対問題解決することを決意し、題目をあげ、解決に向けて全力で行動する(自力)。その一念に感応し、仏力、法力が湧現(他力)し、真の解決へと向かう。
全力で行動の中には当然、問題と向き合い、自分自身とも向き合い、改めるべきところは改める。これを人間革命とも言います。
「信心していれば何とかなる」、「学会活動していれば自然と問題は解決するだろう」は、他力の要素が強く、自力なくして他力なしの原理からいえば、いつまでたっても変わらないことになります。
また、自力ではどうにもならないものが「宿命」です
これは仏力、法力がなければ解決しない問題です
信力、行力、仏力、法力のすべてが兼ね具わってこそ真の幸福があり、それこそが仏の当体です。
御書 P411
趣意「妙法蓮華経とは経典の名前ではなく、自分自身のことなのである。本来の自分自身を顕す仏の言葉である。そのことを覚ることができたらどうなるか。今までずっと自分はつまらない存在だと思い込んでいた錯覚はあとかたも消えてしまう。昨日の夢のように」
仏法は自力本願と他力本願の融合ということになります
仏力、法力が顕されている御本尊を縁として、信力、行力で感応させ湧現させていくもの
一遍の題目に無限の功徳があるとの一念の元、題目をひたぶるにあげていきたいものです
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