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さて、これを明鏡として今の幹部や会員を見ればどうでしょう。
会員名簿を見れば、有役職者が多数いて「教授・助教授・青年一級・二級」と、
多くの人が教学の資格を持っています。
しかし実質を見れば、資格はあるが教学力がまったくありません。
「青年教学一級」保持者が、満足に自分の言葉で御書講義もできず思索もしない、
そのため言葉に力がありません。
ただ創価ネットで流されている御書講義を空覚えで紹介しているような有様です。
いつも幹部の悪評価や組織の不満を口にしているくせに、
それを正そうと戦っている同志と共に、
自分も正していこうという気概もなく、応援もしようとしない。
「組織だから仕方がない」と念仏思想のように諦め、傍観者を決め込む。
幹部は幹部で、現場の意見を聞かず、学会活動の意義を教え、
信心論を語ることもなく、組織至上主義の活動論ばかりを打ち出し、
師匠の言葉を利用して結果だけを会員に求め、それを押し付ける。
その結果、幹部に媚びへつらう人間だけが人材登用され、
幹部に物申す人は、組織の隅に置かれるという現実が、あの地でもこの地でも発生しています。
「此の一凶」とは、
人間主義を否定し「官僚主義・形式主義」に支配された人間の心です。
この心を変革しないかぎり、いくら体制を変えても、
幹部を変えても、真の変革はないのです。
しかしこの一凶は、民衆や会員の心の奥底に重くのしかかり根付いています。
そこに人間革命の必然性があるのです。
また人間革命とは、境涯革命の事とも言えます。
それは、就職が決まった、給料があがった、病気が治った、願いが叶った、
というような目に見える顕益(けんやく)の功徳を人間革命したというのではありません。
境涯革命とは、人格そのものが輝き、言葉に力があり、
どんな困難にも立ち向かっていく勇気ある自身に変わり、
弱い人に勇気を与え、希望を与え、自身の心に三徳(仏界)が表れてくることが、
真実の境涯革命であり、冥益(みょうやく)の功徳なのです。
そして、日蓮仏法は冥益が表です。
その土台のうえに顕益があるというのが大聖人の思想です。
しかし会員の大半は、顕益が信仰の中心と考え、
その功徳を中心に万祈を修しているのが現状ではないでしょうか。
もちろん、それは悪いことではありません。
ただ、それだけであの人は信心が立派だ、あの人は信心がある――というのが、まちがいなのです。
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