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それまで、勉強に勉強を重ね、力をためにためていたかのように、
怒涛の勢いで翻訳事業が始まりました。
中国の僧侶も、羅什の長安入りを伝え聞いて、
続々と彼のもとに結集し、一大教団をなしていったのです。
羅什が亡くなるまで、八年間とも十二年間ともいわれていますが、
その間、三百数十巻もの経典が翻訳されており、
一ヶ月に二巻ないし三巻という驚異的なペースであったと想像できます。
それは、翻訳という言葉から受けるイメージとは異なった、
生き生きとした仏教研学運動であったことを象徴しています。
羅什が訳したさまざまな経典の序によると、
その翻訳の場には、あるときは八百人、あるときは二千人というように、
数多くの俊英が集まっています。
その聴衆を前に、羅什は経典を手に取り、講義形式で進めていったのです。
そして、なぜそう訳すのか、その経文の元意はどこにあるのかを話し、
ある時には質疑応答のような形式をとりつつ、納得のいくまで解読していきました。
書斎に閉じこもり、辞書と格闘し、
自分一人で何十年もかかって難解な訳をするのではなく、
大衆の呼吸をじかに感じながら、対話の場で仏法を展開していったのです。
だからこそ、羅什は、あれほどの名訳が生まれたのではないかと思うのです。
一般的に羅什の訳は、非常になめらかで、
経典の元意をふまえた意訳に優れたものだと言われています。
仏法は、それがいかに優れたものであっても、難解であれば、
人々から離れたものになってしまいます。
人々と語り、生活の中で実感するなかに、思想の光りは輝いていくものだと思います。
もし、この羅什教団ともいうべき人々の仏典流布の活動がなければ、
後の天台、伝教の昇華へと、仏法の歴史が展開することはなかったでしょう。
それを考えると羅什の功績と使命は偉大であったと思います。
大衆の中に入り、大衆とともに語り合うその振る舞いに、仏法研学の真実の姿があると思います。
ある意味で私たち会員も、現代における羅什の立場にあるといえます。
羅什は、インドから中国へと経典を翻訳しました。
私たち会員は、七百年の不滅の末法の経典を、
現代という時代に、生き生きと蘇らせる使命を担っています。
それを率先垂範で実践し、弟子たちに身をもって教えているのが創価三代の師匠です。
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