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この中に「機」とありますが、これは民衆の機根ということです。
相手に今、何を教えればいいのか、何が必要なのか、何を望んでいるのか、
何が聞きたいのか、ということをよく熟慮して進めていきなさい、ということです。
しかし、大聖人は一方で「末代の凡師、機を知り難し」(四三八頁)とも述べています。
つまり末法の仏法指導者は、民衆や会員の機根を知らない、と突き放した言い方をしています。
確かに、人の心や機根は、簡単にわかるものではありません。
大聖人は、次に
「但し、機を知らざる凡師は、所化の弟子に一向に法華経を教うべし」(同頁)とも述べています。
民衆の、また会員の機根をわかるには、毎日毎日、人と会い、対話を重ね、
何回も何回も仏法を説き、折伏し、精神の啓蒙運動という実践がなければ、
人の心、機根などわかるわけがありません。
つまり、私たちで言えば、民衆の中へ入り、会員の中へ入り、会員とともに悩み、
人々の心のヒダに触れていけば「機」は自然に体得できるようになるはずです。
もちろん凡夫ですから、時には失敗することもありますが、繰り返し、繰り返し、
民衆の中で共に悩み、苦しみながら、やがて人の心がつかめるようになってくるのではないでしょうか。
「所化の弟子に一向に法華経を教うべし」とは、
会員の話をよく聞け、また、会員がいるから幹部は成長できるのだということです。
その熾烈な訓練の実践で培った自身の言葉が、相手の心に安心を与え、
納得を与える声になっていくのだと思います。
その意味で「読みとるための心得」とは、自分の境涯革命しかないと思います。
訓練・鍛錬に尽きると思います。簡単ですが、以上です。
最後に、私の座右の銘を記して終わります。
人は理想に向かって
進む時に輝き
使命を自覚して 鍛錬する時に
大いなる向上を遂げる
―― おわり
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