|
おはようございます。
大仏のグリグリのとこ様、年末のお忙しい中、開目抄講義と鳩摩羅什講義を投稿して頂きまして誠にありがとうございました。
現在の創価学会に置換て頂きまして、とても理解しやすい内容に感動しております。
実際、創価学会では理不尽な査問や除名など、開目抄講義の内容が実現しているのが現状です。
そこで考えたいのが、大聖人は「頚の座」という命に係わる迫害を最高位においている事です。
現代に頚の座を置き換えると、自分の浅い頭では「除名」しか思い付きません。
しかし現代で、除名は命を失う恐怖感が御座いません。
本当はもっと深い意味があるのかもしれません。
この頚の座について多く取り上げているのが、種種御振舞御書です。
自分は下記の御書が昔から好きで、現在置き換えたらどのようなことかよく思索します。
「さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、」
「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり」
今、創価学会・公明党が、先生の御意志に反して違う方向に向かっていると感じている方が増えてきています。
幹部や議員の不正に気付き黙っていられない方々がこの掲示板に多くいらっしゃいます。
掲示板に投稿できなくとも「今の学会はおかしい」と思っている会員も多くいらっしゃいます。
そのうえで、迫害の最高位である「頚の座」の解釈を確認したいと思いました。
また、「頚の座」では御座いませんが、熱原の法難(農民信徒の死罪)は現代において何になるのか。
大仏のグリグリのとこ様、年末の超多忙なこの時期に誠に、誠に申し訳ございません・・・・
いつかお時間がとれましたらご講義を御検討下さい。
何卒宜しくお願い致します。
|
|