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今、やっと・・・・仕事が一段落しました。
いやぁ~ こんな不景気の時に有り難いです。
あ、私 30日まで仕事なんです。
皆さんの激励に感謝します。ありがとうございました。
さて、虹さん・・・・・・・グリグリは忙しいっちゅーねん ! 笑
>投稿者:虹と創価家族 投稿日:2014年12月29日(月)05時59分45秒
>大仏のグリグリのとこ様、「頚の座」は「除名」でしょうか。
>現代に頚の座を置き換えると、自分の浅い頭では「除名」しか思い付きません。
いや、それはちがいます。
「頚の座」というのは、御本仏だけが経験できる特権なのです。
類推するものは、何もないです。キッパリ
一つの提案ですが、「頚の座」を今に置き換えることは不可能なので
逆に、なぜ大聖人は何回も何回も「頚の座」の事を語るのでしょうか。
「頚の座」を語ることによって、大聖人は私たち弟子に何を教えようとしているのでしょうか。
それを考察していく方が、私たちのためになると思います。
>しかし現代で、除名は命を失う恐怖感が御座いません。
>本当はもっと深い意味があるのかもしれません。
そうです、その通りだと思います。もっと深い意味があります。
>この頚の座について多く取り上げているのが、種種御振舞御書です。
>>大聖人は「頚の座」という命に係わる迫害を最高位においている事です。
その通りです。 なぜでしょうか。
なぜ、この処刑場の場面を「種種御振舞御書」や他の御書で、物語風に語り、冷静に大聖人は語っているのでしょう。
>自分は下記の御書が昔から好きで、現在置き換えたらどのようなことかよく思索します。
>「さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、」
>「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり」
ここは、非常に大事なところです。虹さんは、気づいていないかも知れませんが、
「この御文が好きだ」というのは、虹さんの命の奥底で、この御文の真意を体得しているからです。
ただ、言葉で表現できないだけだと思います。
これも含めて、虹さんや皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
そして、グリグリの所感をまとめて述べさせていただきたいのですが・・・・・とにかく 忙しい ! 笑
来年早々になると思いますが、発表させていただきます。
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