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ぐりぐりはん、忙しいそうでんな。
ま、ぎょうさん頑張って
儲ける時には思いっきり儲けときや~w
ところで、ぐりぐりはんの意見について
ワシの意見を述べさせてもらうわな。
〉「頚の座」というのは、御本仏だけが経験
〉できる特権なのです。
〉類推するものは、何もないです。キッパリ
となるとやな、ぐりぐりはんが言う「日蓮大聖人(御本仏)だけが持つ特権」は、御本仏が上で、ワシら凡夫は下という差別相があると言う事になるな。
ワシはそうは思わんねんな。
何故ならばな、日蓮大聖人がナンボ御本仏やというてもや、御本仏だけが経験出来る特権があるとするとな、ワシら凡夫がナンボ拝んでみてもや、永遠に日蓮大聖人(御本仏)と境地冥合出来ひんことになるしな。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(P1358)
「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(P1359)
ワシらの師匠は、法華経の智慧で言うたはる。
「“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。
仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
実は凡夫=人間の「影」であり、「用(き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。」(法華経の智慧第5巻p172)
ワシらの師匠はな、日蓮大聖人の御書を引いて
御本仏の特権どころか、「凡夫こそが本仏」と言うたはる。
その上でワシら凡夫にとっての「頚の座」について考えてみるで。
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