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ナニが言いたいかと言うとな、
日蓮大聖人の頚の座といえども特別な事やあらへん。
ワシにも自分にとっての頚の座はある。
しかし、大事なんは、その自分にとっての頚の座があっても乗り越えていけるかどうかが一番大事な事やね。
所詮は、どこまで信じ切れるかどうかやろ、と思うてますねんけど。
ただ何でもかんでも信じろ、信じてたらエエんやとなると「信者はん」を養成してる事になる。
「信者はん」から「行者はん」になる為に
創価学会の三代が教えてくれたんは「御書根本」「日蓮大聖人に直結」と言う事やとワシは思うんや。
仏法には「師弟」が一番大事や。
仏法的には日蓮大聖人が師匠であり、
創価学会の三代は人生の師匠や。
師匠を認識出来るからこそ「実践で信じる事」が出来て、それで「信者」になれるんとチャウやろか?
もし、ワシら弟子がやな、師匠を乗り越えられへんと、命の隅に少しでもあれば、それは師弟不二ではないんとチャウかな。
この師匠と弟子の本物の格闘の中にこそ
現代の頚の座があるんやと思うで。
「ワシの師匠ならば、こういう場合、どうしはるやろか?」と常に考えて行動し祈って行ったら、どんな(自分にとっての)頚の座があっても乗り越えていけると思うんやけどな。
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