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竜の口においての発迹顕本と、我々の立場においての発迹顕本を同列に扱うことは無理があると思います
やはり次元が異なるのではないか
法難のなかでもこれ以上ないのが処刑
事実の上で法華経を完全に身で読まれた
上行菩薩(凡夫代表)という立場を払って、御本仏という立場を顕した
日蓮大聖人は凡夫であって凡夫ではない
そもそも御本仏ってなんなんだって話になりますね
うろ覚えですが、たしか戸田先生が、我々衆生と大聖人は同じだけど同じではない的な指導をしていたように思います
牧口先生も「大聖人の難にくらべれば九牛の一毛である」と
妙法蓮華経という法があった上での日蓮大聖人という立場だったのが、妙法蓮華経そのものが日蓮大聖人という立場に変わったのが発迹顕本
このあたりが分かりづらい
牧口先生は殉教されましたが、これも言うならば法のために命を捧げた行為であり、最高峰でしょう。だけど、このことと竜の口が同じことかというと何かが違う
御書の産湯相承事(P878)の中で、大聖人の父母が、不思議な夢を見た話が記されています。
虚空蔵菩薩が肩に稚児を乗せていて、この子は上行菩薩であり、行く末は三世常恒の大導師になる。これを汝に与えんと
我々も妙法の当体であることは間違いありませんが、日蓮大聖人は何かが別格
その何かはよくわからないです
次元が違うことを前提として竜の口を我々にとって何かと考えると、いくつかキーワードをあげれば見えてくるかもしれません
竜の口の特徴として
・法難であること
・絶体絶命
・三類の強敵(中でも僭聖増上慢)
・命をも惜しまない
・これほどの喜びはない
現代において、法難があっても殺されるようなことは、まず考えられない
また、個人レベルで僭聖増上慢と対峙することも、「それってどんなケースだよ」レベルですね
竜の口においての発迹顕本は、極み中の極みであり、我々個々においての発迹顕本というのはもう少し広義の意味でないと困りますね
そうでなければ誰も発迹顕本できない計算になってしまいます
私は広義な意味において、三障四魔との戦いも発迹顕本の契機となり得ると思います
京都乃鬼様の仰るように、信心を頑張って頑張ってきた結果、癌を宣告され絶体絶命状態に。
陰魔もしくは死魔として自分に襲いかかってきたときに、「これほどの喜びはない、笑える」とそのような境涯を開けたのなら、発迹顕本と言えるのではないか
「こんなにがんばってきたのに何で?」という事態は体験談を読めば、いくらでも起きていることがわかります
その大きな山を迎えた時こそが、本当の勝負の時
天下分け目の大決戦
凡夫が仏になるときは三障四魔が必ずあらわれると御書にあります
そして、賢者は喜び愚者は退くと
魔というのは自分の一番弱い部分を突いてくるものであり、最上級の質の悪さです
それに打ち勝つことが人生でもっとも大事なことであり、そのために魔をしっかり凝視できる信心を磨いておきたいものです
簡単ではありますが、思いつくところをつらつら書いてみました
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