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いろいろ語られている○○がこうだ、ああだ、だからおかしい、組織が衰退している、
等々、そういうことは「もうどうでもいい事、くだらない事」なのだと私は20年前に気づきました。「どうぞ勝手にやって下さい」という感覚です。
仏法を教学的な用語でいくら語っても、歓喜は生じないのです。ある壮年に組織、または幹部に期待するから、勝手に裏切られを感じるのだと言ったことがあります。
外に何かを求める愚考が今日の文明を築いてきたのです。内と外のバランスの自得が
信心を深めるのです。師弟論を語るにもあくまでも弟子という求道者の眼差しであり、救済者としての眼差しが欠落しているところに自己都合優先のエゴの働き作用が起こるのです。意識の感覚から見ていかないと振り回さられるだけで何もかわりません。それも、その人が選択している事実なのです。
信心の歓喜・喜びを語れない現実に「法」に対する冒涜と軽蔑があるのです。どうでもいい事、くだらない事の多くはなかなか気づきません。自身の体感・体験により見えてくるものです。
今、こうしていろいろ語られていることも生命論からみると、意識の進化、または信心の進化、救済を求めているのだと感じます。衰退するのも進化論的に言うならば自然の働き作用であり、御仏智なのです。なげやりではなく、物事、現象は「なるようになっている」のです。
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