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私は、虹さんに、
>一つの提案ですが、「頚の座」を今に置き換えることは不可能なので
>逆に、なぜ大聖人は何回も何回も「頚の座」の事を語るのでしょうか。
と呼びかけました。
「置き換えることは不可能」と表現したのは、
実際に現代において法華経のために死刑になることはないからです。
だからと言って、凡夫の私たちにとっての「頸の座は・・」と考えることも有意義なことではあると思います。
しかし、私の関心事はそこにはありません。
それは、大聖人が「頸の座」の光り物や異変の出来事を、
みだりに語ることを明らかに避けていることを示した御文があるからです。
御書には
「去年九月十二日御勘気をかほりて、
其の夜のうちに頭をはねらるべきにてありしが、いかなる事にやよりけん」 (一一二〇頁)というものです。
これは、四条金吾に送った手紙ですが、
ここに「いかなる事にやよりけん」と一見当日(頚の座)の出来事に対して何も知らないような書きぶりです。
四条金吾もその場に居た当事者なのだから知らないはずはありません。
このような表現は「反語法」といいます。
つまり、断定を強めるために、言いたいことを逆に言い、かつ疑問の形にした表現です。
だから「いかなる事にやよりけん」は、何があったのだろうという疑問文ではなく、
何があったか金吾さんはお分かりですね、という意味が隠された反語となっています。
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