|
ではなぜ大聖人は、竜口の「奇跡」を声高らかに語ることをしなかったのでしょうか。
それは、弟子がこの「奇跡」だけに目が奪われて、
仏法の本質から目をそらされてしまうことを恐れ、日蓮大聖人の神格化への危惧があったためだと思われます。
実際、大聖人の「立正安国論」も、他国侵逼難や自界叛逆難という二つの予言ばかりが強調されて、
内容が問題にされることは今も昔も少ないように思います。
大聖人にとって予言に価値があるのではなく、価値があるのは立正安国の法理です。
「奇跡」というものは、本質を見失わせる働きがあると思います。
だから語るなというのではなく、語るには細心の注意をして語る必要があるということです。
事実、末弟の日蓮教団は竜口の「頸の座」を神秘的に伝え、日蓮大聖人を神格化してきました。
竜口の「頸の座」は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。
まず、結論から言うと「頸の座」のことを語る、大聖人の真意は
「不退転の境地に弟子よ立て ! そして師匠亡き後の広宣流布を頼む」ということだと思います。
だからこそ、あの極寒の地で、過酷な環境にも関わらず「開目抄」や「観心本尊抄」を弟子たちのために残されたのだと思います。
そう考えると、不退転の信心の境地に立てた「出来事(体験)」は、
皆さんはすでにお持ちで、もう確立しているのではないでしょうか。
つまり、皆さんにとっての「頸の座」は、
何があっても信心はやめない、どんなことがあっても人生の師匠は池田先生である、
という不退転の信心に立脚できた「出来事」だと思うのです。
しかもそれは、会員それぞれ千差万別です。
だから、これが「現代の頸の座」だと断定することはできないと思います。
それを踏まえたうえで、
何のために、日蓮大聖人や創価三代会長が、受難に耐えてきたのか――。
むしろ、この師匠の到達点を、弟子の出発点として行動しなければ何の価値も生まれないと思います。
問題は、その不退の境地に立つことができた「感謝と歓喜と法理」を、
どう後輩や、後継の人に伝持していくのか、ということではないでしょうか。
|
|