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私も創価学会の誉れある偉大な幹部の称号を、
池田先生から拝命されたとの自覚に立って戦っています。
青年部時代から今日に至るまで何十年もの間、毎日毎日、御書を研鑽し、
仏敵と戦い、組織悪と戦い、上の幹部に嫌われ干されたりしても、会員を激励し、
会員と共に悩み、後輩の人材育成を止めたことはありません。
そして一生懸命、池田先生に恩返しがしたいとの思いで唱題を重ねています。
日蓮大聖人は、種種御振舞御書のなかで弟子に呼びかけています。
「日蓮悦んで云く、本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ・・・・提婆菩薩は外道にころさる」(九一〇頁)
ここで大聖人は、身命におよぶ受難があることは、最初から覚悟の上で始めたことだと言っています。
むしろ受難を喜びとして受け止めたのです。
自らが不退の境地を示し、弟子たちの迷いを打ち破り、激励しているところです。
そのうえで、雪山童子などの経典に説かれる殉教者の人々を挙げて、その系譜に連なる誉れを示しました。
この何気ない一言の中に、大聖人がどのような生き方をしてきたのかが伺えます。
また、
「さる文永八(一二七一)年九月十二日、幕府の処分を受けた。
その時の日蓮逮捕の様子も尋常ではなく、法を無視したものといえる。
その有様は、平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に銅丸を着せて、自分は烏帽子をかぶって、
眼を怒らせて声を荒げていた。これはただ事とも見えない光景であった」(九一一頁)と述懐しています。
幕府は、大聖人の草庵を襲い、未曾有の迫害を加えました。
しかも武器一つ持たない一人の僧侶を逮捕するのに、
わざわざ「平左衛門尉が大将となって数百人の兵士に」とあるように、
今でいえば防衛省や警察庁の副長官が直々に指揮をとって兵士数百人を率いて、大聖人を捕まえに来たというのです。
長官は執権・北条時宗が兼務していますから、平左衛門尉は副長官にあたります。
しかし、実質の侍所のトップは平左衛門尉です。
そのトップが動くからには、人数も半端ではなかったと思います。
「数百人」と表現されたのも、大げさに言ったものではないでしょう。
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