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さらに
「日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろをもひまうけたりつる事はこれなり。
さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし」(同頁)
――日蓮はこれを見て思った。
「常日頃、念願していたことはこれである。なんと幸せなことだろう。
法華経のためにこの身を捨てる事ができるのだ。臭い凡身の首を斬られるならば、
砂と黄金を交換し、石で宝珠を買い求めるようなものではないか」――と。
そして
「今夜頚切られへまかるなり、この数年が間願いつる事これなり。
此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれねずみとなりし時はね●にくらわれき。
或はめこのかたきに身を失いし事、大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度だも失うことなし。
されば日蓮、貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度、頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり」(九一三頁)
――今夜、日蓮は首を斬られに行くのである。この数年の間、願ってきたことはこれである。
この娑婆世界においてキジとなったときはタカにつかまれ、ネズミとなったときにはネ●に食われた。
あるいは妻子を守るために命を失ったことは大地微塵の数よりも多い。
だが法華経のためには、ただの一度も失うことがなかった――と。
この二つの御文は「法華経身読」の歓喜と殉教を教えられたところだと思います。
これは単なる「殉教思想」などという軽いものではありません。
殉教とは、教えに殉ずることであり、殉ずるとは、死ぬことです。
しかし、法華経の教えに殉ずるチャンスというものは、願っても、そう簡単に巡り合えるものではないでしょう。
反社会的な振る舞いが招いた災いならば、世間にはいっぱいありますが、
そういうものは法華経とは無縁のものですから殉教とは言いません。
それらは「鷹にあった雉、ね●にあったねずみ」と、さほど変わらないと思います。
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