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殉教の覚悟というのは、信念を貫き通した最も誇り高い生き方なのだと思います。
そして、それを可能にするのは、師匠の生き方への共感と共鳴から起こると確信します。
殉教の精神というものは、決して一時的に燃え上がるようなものではなく、
もっとも冷静な判断のなかから出てくるものだと思うのです。
だからこそ池田先生は、殉教の先師を宣揚し、さらに師たることを自覚した池田先生は、
自らの生き方や師弟のあり方を、自らの体験を通して弟子に語り続ける必要があったのだと思います。
御書には「先、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(一四〇四頁)とあります。
まず、死という問題を先に習いなさいと教えられています。
仏法は道理であり、因果の理法です。
極悪は地獄、極善は成仏――これは当たり前の道理です。
そして、自分の幸福、社会の繁栄といっても、生老病死という四苦の解決抜きでは成り立ちません。
本来、何らかの宗教に入会する動機は、この問題解決のためだったのではないでしょうか。
生に驕る人は死の不安を心密かに抱き、
若さに驕る人は老いを恐れ、
健康に驕る人は病に驚く。
生老病死は、人生の根本問題にも関わらず、それを直視することすら避けている人があまりにも多いのが現実です。
生老病死が人生の実相であるならば、そこから逃げることはできないし、
逃げていては、決して真の幸福に至ることはないのです。
日蓮大聖人は、「頸の座」という出来事を、弟子たちに繰り返し語ることで、
師に殉ずる「師弟不二の人生」を弟子たちに全うさせたいと思ったにちがいありません。
では、法華経の行者という生き方を、弟子の私たちが継承していくためにはどうすればいいのでしょうか。
それは根源の師たる日蓮大聖人や、人生の師匠である池田先生の生き方を、
自らのうちに絶えず問い返していくことであると思います。
そして大聖人が実践の規範として示した宗教の五義を、具体的に自らに当てはめてみることも必要ではないでしょうか。
最後に、池田先生が「三・一六 広宣流布記念の日」四十周年(一九九八年)の時に詠まれた一句を記して終わります。
殉教の
決意で恩師を
護らむと
血潮は燃えたる
偉大な この日よ
― 完 ―
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