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>>「大聖人御真筆の御本尊は、今日、百二十数幅が現存していますが、それらは全て身延や中山などの邪宗の寺に所蔵されています。大聖人の真筆ですから御本尊は本物ですが、だからと言って、身延や中山に参詣してその御本尊を礼拝するでしょうか。そのような行為自体が邪宗に供養する与同罪の謗法となることは言うまでもありません。学会が弘安二年の本尊を礼拝しないのは、身延や中山にある真筆本尊を礼拝しないのと同じです。「生死一大事血脈抄」に「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(1338頁)とあるように、たとえ御本尊(法華経)が本物であったとしても、それを拝する人間の信心が大聖人に違背し、狂っていたならば、一切の功徳はなく、むしろ罰しか出ないのは当然の道理です。大聖人の御本尊はあくまでも「観心の本尊」「信心の本尊」であり、正しい信心で拝してこそ初めて本尊としての力用が顕れるからです。」
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本日、休暇がとれてゆっくりもできませんが、戒壇の板本尊通称戒壇様は今現在、日顕に人質に取られて御開扉を受けられない状態です。
古来より偽作論があちらこちらでありますが、このご本尊は、日蓮聖人の御当体でその法体の御内証は法主と同じであるという法主本佛論という邪義を宗門が唱えているのはご承知の事と存じ上げます。
この戒壇様は日蓮聖人も衆生も倶に成仏をしますよという意味での特別なご本尊であり、古来より衆生の成仏の姿の当体(熱原の法難に関係する)として崇められてきた特別の存在です。決してご観念文の表面読みだけでは理解できません。
法主の題目は衆生(信徒)の題目であるという相承の一部の文句がそれを示しています。
安易な凡夫本佛論ではなく、凡夫の代表としての名字即の本仏としての日蓮聖人の題目と我ら衆生の題目は同一であるのです。
この戒壇の板本尊を我らとは無関係の本尊であると言い放った現会長の真意を伺いたいものです。
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