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「なにがあっても先生と自分だから」
信心が確立し、環境に左右されなくなってくると、このような言葉を言えるようになります。
学会の幹部になっていく人に多い思考であり、個の信心としては大変立派であると思います。
どんな理不尽な打ち出しがあろうと、傲慢な幹部がいようと、そんなのは関係ないと。全部自分の一念で決まるんだと。
これ、最高の正論である。
私は、個の信心としてはこれでいいと思っています。ただし、リーダーになる人間ならば、もう一歩深いところに踏み込んでほしいと思うのです
なぜ多くの会員が不満があっても、それを黙り、意見を表明せず黙々と活動に勤しむのか
それは、何か言うと幹部に「自分の一念次第よ」「それは魔よ」「先生と自分よ」と指導されてしまうからではないかと考えています
指導を求めていないのに指導されてしまう
指導を求めているのなら別に構いませんが・・・
日本人というのは元々、自分を責める傾向にあります
組織や活動に不満があったとしても、そのように考えてしまう「自分が悪い」のだと
すべて自分持ちの自己責任
そうなると究極的なところ「善知識」という概念すら必要なくなってしまう
学会に合わせられない自分が悪いと責めている人は、たくさんいるのではないでしょうか
そういう私も、一時期幹部より理不尽な成果を求められ、結果を出すことができず、「役職やめろ」と何時間にもわたり、責められたことがあります
その時、私は「自分が悪い」と言い聞かせていました
さすがにその姿をみた親が、「これはいかん」ということでストップがかかりました
しかるべき幹部に相談したところ、「全部幹部が悪い」という結論となり、後日、掌を返したように謝罪してきました。
そこからやっとまともな思考で学会活動ができるようになり、結果も出るようになりました
かゆいところに手が届いてこそリーダーであり、正論ふりかざしている人ほど、結局組織で改善しなければならない問題から目をそらし、何もしないパターンが存在します。
人間は感情の動物であり、それ故、環境にも大きく左右されてしまいます
そこを考慮せずに、なんでもかんでもすべて信心でとらえて頑張れというリーダーがいたとしたら、それはもはやリーダーではない
それは時に組織悪を助長させ、傲慢な幹部がのさばる土壌をつくる結果となりかねない
そういう負の側面もあることも知らなければならない
池田先生の指導 広布と人生を語る1巻より
「組織悪の面は、皆で話しあい、是正し、進歩させていく方途をつねに考え、努力すべきである。けっして、悪の面のみをみて組織否定を即断すべきではない」
根本は自身の一念ですが、それだけでよしとしないところに、仏法者の慈悲と包容力があるのではないでしょうか
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