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「経験」についてもうすこし補足すると、経験自体を邪険に扱っているわけではなく、経験が必ずしもプラスに作用するとは限らないということが言いたかったのです
人はどうしても成功したりすると、そのやり方に固執するようになったりします
そうなると、違うやり方を受け入れられないようになったりします
成功した時に失敗の因がつくられる場合もあれば、失敗が成功の因にもなりえます
そういう観点から、「経験」が邪魔をすると表現した次第です
言葉足らずで申し訳ございません
ネットの世界というのは、いろんな考えや意見が飛び交い、極論や、時にカオスレベルの意見にも遭遇します
それがネットであり、良いところでもあり、悪いところでもあります
影響されやすい人は閲覧注意でしょう
私は100人中99人が賛成の意見でも、1人反対意見を表明したのなら、その意見に耳を傾けたいのです
賛成と反対に分かれたのなら中立の意見も投げ込みたくなる性質なのです
どのような意見にも完全に与することはありませんし、鵜呑みにもしません
あくまでも考えるきっかけとしてネットを利用していますし、また私の意見も一つの角度の意見でしかありません
掲示板の性質上、幹部の悪をあきらかにしていく側面がありますが、それが行き過ぎると批判のための批判に堕してしまう危険性があることも承知しています
それを抑制するために、戒めの記事を投稿することも自浄作用につながるので、結構だと思います
私も、今の創価学会には「納得」の対話がないことが問題だと考えています
一方的な姿勢では納得は生まれませんし、納得の大前提が「聴く」という行為であると
先生の指導としても(広布と人生を語る2巻より)
「納得のいかない指導があった場合、けっしてしたがう必要はない。あくまでも納得のいく指導を求め、または納得のいく指導をそしゃくしながら、信心の間違いなき前進をしていただきたい」とあります。
納得ができないことをうやむやにする必要もないですし、またそのような状態を放置するのは無慈悲であるとも思うのです
人は納得したときに本来もっている力を発揮し、前進することができる
決してロボットではないし、歯車でもないのです
信徒を奴隷にするような学会には絶対にしてはならないのです
そのために、悪しき幹部との戦いは避けられないだろうし、準備もしなければならないと考えます
そして善導でなんとかなる幹部もいれば、追放しなければならない幹部もいるでしょう
仏と魔は一体であり、善と悪も紙一重です
自分が善だと思っていても、いつの間にか悪になっている可能性も否定できないのです
個人も組織も自浄作用というものが働かなくなると、おかしな方向に行ってしまうものではないでしょうか
もちろんこの掲示板も然りです
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