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まず基本構造として
「妙法の四力」 信力・行力・仏力・法力
信力:ひたすら御本尊を信じる
行力:余事をまじえずひたぶるに題目を唱えるという実践
仏力:人々を救う力
法力:法の無限の力(功徳として顕れる、祈りが叶う)
信力と行力が強ければ強いほど、それに感応し、仏力、法力が顕現される
御本尊には仏力・法力が具わっていて、こちら側の信力、行力によって感応させ顕現
これを境智冥合ともいう
手と手を合わせ祈る姿は、仏と凡夫が一体となることを意味し、九界即仏界であり、境智冥合の儀式とも言えましょう
広宣流布は仏の仕事です
御本尊に題目を唱え仏力、法力が顕れないと推進することはできません
さて、「大謗法の地」にある大御本尊には仏力・法力が具わっているのか否か
ここが問題ですね
会則改正前(大御本尊を受持の対象としていた時代) 私の解釈
「大御本尊は受持の対象となり得るが、日蓮正宗の間違った信心での信力、行力では仏力、法力は顕れない」
むしろ今でも勤行要典の御観念文に「大御本尊に南無し奉り、報恩感謝」とあります
これは力のあることの証拠ですね
改正後(現在) 私の解釈
「大御本尊は受持の対象とはなり得ず、正しい信心での信力、行力であっても、仏力、法力は顕れない」
ということでしょうかね
大石寺の敷地内(大謗法の地)にある大御本尊では、いかなる信心のある人でも、仏力、法力を顕すことはでき得ないと
御書 P1244
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」
私は、正しい御本尊に正しい信心での信力、行力であれば仏力、法力は顕現できると思っていたのですが違うのですかね
それでは「只」という字は一体何を意味するのでしょうか
大謗法の地にあるからダメということになると、環境も大事ということになりますね
それならば、大御本尊を大誓堂に移して、そこでなら仏力、法力は顕れるのか否か
御本尊の力用というのは場所によって左右されるのか
会則改正というのはこういう一つひとつの事柄を詰めていき、しかも結論も出さなければならないわけです
教学部レポートによると、総本部完成2か月前に突然言われてスタートさせられたと
そんな短期間では検証できるようなレベルの問題ではないでしょう
厳密に検証し、整合性ある答えを導くには何年もかかる
教学部だけでは手に余る問題であるし、ひょっとしたら検証することは不可能なレベルなのかもしれません
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