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宿坊の掲示板は「日寛教学」という言葉さえ知らない一般の方々も見ています。
今大切なのは、多くの意見や議論を聞き、自分で思索することではないでしょうか。
文証・理証・現証、あらゆる次元での意見交換が新たな道を創ってゆくと思います。
さて平成2年入会の自分の体験からくる本尊観です。
少々粗い内容で申し訳ございませんが読んで頂ければ幸いです。
結論は、大聖人のご真筆本尊(相貌が同一の書写本尊も含む)は全て本物。
もちろん戒壇本尊も本物です。
脇書等の話をよく法華講が言ってきますが、自分の考えは御本尊の相貌に脇書は含みません。
脇書で御本尊の功徳の出方が変わるなんて変な話しです。
ゆえに出世の本懐の解釈による弘安2年10月12日の大御本尊の意義付けもピンときません。
実際、大御本尊は入会時に1回だけ遥か遠くから見ていますが全く覚えておりません。
自分は平成3年に呼吸停止・脳死になりました。
しかし奇跡的に蘇生しました。当時は日顕本尊です。
その後、日寛本尊、携帯本尊でも多くの奇跡的体験をしています。
どの本尊でも功徳は出たのです。
法華講の方は、創価学会の功徳を「魔の通力」と言われます。
病気で入院は平成3年2月~3月。この期間は創価学会が破門されていない。
よって日顕本尊に歴代法主の血脈がまだあり功徳が出たのか?
そして平成3年11月28日に創価学会破門により、29日から血脈が切れ功徳は魔の通力に変更となったのか?
いったい28日の、何時何分から魔の通力変更になったのか?
御本尊に賞味期限を付けることが不思議に思いました。
また生活の中で大御本尊を意識することは全くありません。
大御本尊が無くても生活に支障はありませんでした。
しかし、大聖堂の御本尊を大御本尊と意義付ける会憲制定はおかしい。
まさか出世の本懐を、大聖堂の本尊なんて改定したら学会教学は終わりです。
教学力が無い一般会員の考えと、広い心でとらえて下さいね。
宜しくお願い致します。
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