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たとえば、どこぞの馬の骨かもわからないじいさんが、ものすごい模写がうまく達筆で、大御本尊をそのままそっくり書写したとします。ではこれを今日から拝んでくださいと言われたら拝めますか?
私は、拝まないですね
そっくりそのまま書写されているからといって、オッケーですとはならない
日顕書写の本尊でもそうだと思いますが、そこに湧いてくる思いは「気持ち悪い」ではないでしょうか
仏法は「信」が要であり、御本尊に対して「気持ち悪い」と感じてしまったのなら、もはや信どころではなくなる
信心がしっかりしている日寛上人書写の御本尊だから、すっきりした気持ちで拝むことができる
結局はすっきりした気持ちで題目があげられるかどうか
大謗法法主の認めた本尊を拝めといわれても、やはりそこには信は生じませんし、結果仏力、法力を顕現させることができなくなる
戒壇の大御本尊とは全世界の人々がもれなくすっきりした気持ちで拝める御本尊ということではないか
おそらく相貌が整っていれば誰が認めても御本尊足り得る
御本尊といっても、実際は紙に文字が並んでいるもので、そっくりそのまま書写したら誰も見分けがつきません
本物にはオーラが出ていて見分けることができる「御本尊鑑定人」がいるのなら別ですが
だからといって誰が認めてもいいものとは思いません
それは御本尊軽視につながるからです
根本尊敬の御本尊に対する「畏敬の念」こそが信仰者の証であり、信心していない人からしたら御本尊というのはただの紙でしかないでしょう
同志を軽んじることは謗法であるのに、根本尊敬である御本尊が軽んじる行為が謗法にならないわけがないでしょう
理論的には誰が認めても御本尊足り得てしまうかもしれませんが、だからといってそれを是とはしない
なぜなら信心とは心の世界の話ですから
御本尊に対して畏敬の念を抱くことが信心であり、それがなくなってしまったのなら、もはや仏弟子とはいえないのではないか
もしも誰かに御本尊を認めてほしいと依頼されて、「はいわかりました」と言える人はいますか?
私には恐れ多すぎて無理ですね
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