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人間主義と不自惜身命について、私の思うところを述べさせていただきます
御書P1597
「聖人の御ためには事供やう(養)・凡夫のためには理くやう(供養)」
事供養:身命
理供養:物
現実に、命をかけられる人がどれだけいるか
それは稀であり、聖人の振る舞いです
命をかけることが成仏の条件だとすると、万人成仏を説く法華経で実際に仏になれる人はほぼ皆無ということになります
命をかけられないこそ凡夫であり、故に凡夫の供養は物が中心となります
さらに御書ではこのように仰せです
趣意「飢饉の世に、これを供養してしまえば今日の命をつなぐ物もない時に、ただ一つの食物を仏に供養することが、身命を仏に奉ったことになるのである」
ここで注意すべきは、飢饉の世というところです。本当に困っている人に対して、二つとないものを供養するところに意義があります。
楽法梵士は身の皮を紙とし、骨を筆とし、血を墨として一偈を書き留めようとしましたが、もしも紙とペンがあるのにこれを実行したのなら、「それはちょっと」となるでしょう
さて、本尊が大切と信じ火事の中に飛び込んで大怪我をしたり亡くなった方の場合はどうなるのか
まず、前提として、御本尊を自分の命以上に大切にしている信心の姿勢というのは、仏の境涯そのものであり、尊いのは言うまでもありません
ただ、現代においては御本尊はいくらでも複製可能であり、火事で焼失したからといって、たいした問題ではありません
私の友人は精神疾患を患っていて、あるとき唱題の最中にわけがわからなくなり、御本尊を破いてしまいました。
すこし間はあきましたが、後日新しい御本尊をいただいています。
また、古くなった御本尊を新しい御本尊にお取替えする人もいます。ではその古い御本尊はどうなるのか
おそらく焼却処分等されているでしょう
どこかに保管されていても意味がないですからね
私は天災等で御本尊に傷がつく事態になったとしても、自分の命を優先します
また、火の中に飛び込もうとする人がいたら全力で止めます
御本尊が焼失したからといって、法華経の精神がなくなるわけではありません
ここに殉教との違いがあると考えています
神札容認することを拒むこととは次元が違う話であると
このような場合は、妻子を顧みることなく法華経を護ることが重要でしょう
現代では、信心しているからといって、殺されるようなことはないですし、物が溢れている時代ですので、物の供養もたいして意味はなさないでしょう
現代版不自惜身命は、法のために「時間を惜しまない」ということになるのではないか
池田先生の指導(広布と人生を語る1巻より)
「信心活動には潔く励んでいくべきだが、同時に生活、家庭も盤石にしていく社会人でなければならない。それが中道である。」
自分の生活、家庭を大事にするのが大前提であり、その中で時間を惜しまず、法のために行動する
自分を大事にできない人は、人を大事にすることもできません
無茶、無理をさせることが信心ではありません
ここをはき違えると、おかしなことになります
創価は価値創造の団体です
今一番価値あることは何かを見極め選択していくこと
一律に決めてしまうのは人間主義ではありません
仏法は自由であるものと考えています
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