先日保育園のホールで布団のカバー掛けをしていた所、アスペルガーの末娘アオのクラスの男の子に話しかけられました。
「ねえ、アオちゃんのママ~、あの箱にはなんて書いてあるの?」
ホールの隅に置いてある段ボール箱を指して聞いてきます。その箱には「かぶと」とひらがなで表記してありました。子供の日までに出す準備で置いてあるのでしょう。しかし、私は目が点になってしまいました。
「かぶと、て書いてあるよ。読めないの?」
「え~、読めないよ~。」
そうかあ~、4歳の子は普通ひらがな読めないのかあ~。いや、あの子だけなのかなあ~、どうなんだろう・・・???
子供を三人も授かって育てていながら、私には未だ標準的な子供の成長の度合いがわかりません。末っ子を育てながら初めてよその子を観察している有様です。なぜならば三人とも自閉症スペクトラムなのだからいたしかたありません。三人どの子をとってみても標準的ではないのだから、私には自分の子がどのくらいまわりからズレてしまっているのか見当がつかないのです。これは自閉症の一人っ子を育てている親にも同じことが言えるのではないかと思います。
まあ、完全にカナータイプで介助無しで生きていけない長男のような場合はよしとしましょう。我が家の下二人のように境界型、あるいは高機能のタイプのお子さんを育てる時は、普通級や保育園でがんばっている場合が多いと思います。私はうっかりとアイの障害を見落としてしまった教訓から、アオについてはかなり慎重になっています。それにアオはIQが高すぎて、お兄ちゃんやお姉ちゃんのように愛の手帳も取れません。であれば、注意深く周囲との「ズレ」みたいなのを観察して、行動修正が必要な所は早め早めに手を打たなくてはなりません。
それで、保育園に行った時には必ずどこかの子と話してみるよう心がけています。子供嫌いの私にはしんどい作業だったのですが、最近クラスの子供達の顔を見分けることが少しできるようになって楽になりました。
ざっくり言うと年中組くらいの子ってこんなに幼いんだ~、というのが率直な意見です。家でアオが国旗を覚えたり、やすやすとカルタ取りをやっていたり(もちろん字を読んで)、ニュース番組を聞き取りして福島や茨城のことを考えてたりすることを考えてみれば、とても同じ歳の子供とは思えません。そして、それが当たり前のいわゆる標準的な4歳児の姿であり、アオの方が精神年齢的には大きくずれてしまっていることは間違いありません。
そして、4歳児達はみな天真爛漫で残酷です。もう少し大きくなれば、言っていいことと悪いことの区別がつくようになるのでしょうが、覚えたての言葉をなんの躊躇もなく、そして何も考えずに使っているのでしょう。
「今はアオちゃんと遊ばない」
と、友達に言われてアオがこの世の終わりのように落ち込んでいたことがあります。この場合の遊ばないは、正しくは
「今はこの遊びがしたいからそっちには参加しないよ。」
というぐらいの意味合いだったようです。しかし、アオの捕らえ方は
「アオちゃんとは遊ばないよ。」
だったのです。この件で私は、言った子の親とアオとそれぞれ聞き取り調査をする所まで徹底して解明しました。なぜアオと遊ばないと言われたのか、悪いところは修正しなくてはならないと思ったからです。
ところが、言った方はそんなこと覚えてさえもいないとのこと。一方言われたアオは相変わらず沈み込んでいます。結局状況から判断して、言葉の受け取り方のズレが発覚したのです。4歳児の使う単純明快な言葉は、すでに精神年齢がみんなより先に成長してしまっているアオの方が受け取り方が重いのです。また、アスペルガータイプ独特の言語のズレみたいなのも大いに影響していると思うのです。
就学を迎える頃、標準発達の子達は順調に成長をしていることでしょう。その時に、アオは一体どうなっているのでしょうか。どこかでみんなと歩を同じくするのか、それともいつか逆転して置いていかれる日がくるのか・・・。今の私にできることは、日々意深く観察し続けて、アオが
「へんなヤツ。」
と思われないですむように行動修正を続けていくしかないのです。言葉の取り違えで落ち込んだら、正しく通訳をしてあげなくてはなりません。気が遠くなるような長い長い道のりです。いつかママの通訳がなくても大丈夫になる日まで、私は毎日アオと同じ年頃の子を観察し続けていると思います。