北河内古代人物誌

  鵜野讃良皇女



 鵜野讃良(うのささら)皇女。天武天皇の皇后であり、夫の後を継いで持統天皇となった女性である。この鵜野讃良と云う名前のうち 後半の「讃良(ささら)」が北河内の讃良郡に由来することは疑う余地がない。しかし、前半の「鵜野(うの)はどこから来ているのか。これは、以前から私の中にわだかまっていた疑問の一つであった。

 だいたい、この名前は異例である。これは「鵜野」と「讃良との二つの名が複合されたものであるが、このような複合名を持つ皇子女は他には全く見当たらない。いったい、鵜野とは何なのか。

 当時の皇子女の名前は、地名もしくは氏姓名のどちらかによるものである。このうち、氏姓によるものは、その乳母の出身氏族名である。従って、鵜野も地名か氏姓名かのどちらかであるが、「ウノ」あるいは「ウヌ」と云う名の郡名はない。郷名としては、周防国吉敷(よしき)郡宇努(うぬ)郷、播磨国佐用郡宇野(うの)郷などがあるが、これらを讃良郡と結びつけると、木に竹を接ぐ感じになってしまう。

 そこで、氏姓の方を調べてみる。新撰姓氏録によると「宇奴(うぬ)」を姓とする氏族が二系統ある。
 一つは宇奴造(うぬのみやつこ)、または宇奴首(うぬのおびと)を名乗るもので、百済の国の人(または百済王の子)「ミナソオオミ」または「ミナコオオミ」の末裔と称する氏族である。
 もう一つは、宇奴連(うぬのむらじ)を名乗るもので、新羅王子「金庭興」の末と称する氏族である。この新羅の王子の渡来については、日本書紀の欽明二十三年の条に、その経緯が記されている。

 当時、半島では新羅と百済とが緊張状態にあった。新羅は、我が国が百済に加担して軍を出すことを警戒して、二十一年頃から、しきりに我が国に使いを送り友好をはかる。二十三年、四回目の使いがやって来る。しかし、その時も時、半島で新羅は、我が国が何らかの権益を持っていた任那(みまな)十カ国に侵攻し、それらの国々を滅ぼしてしまう。その新羅の使人は、我が国がその言行不一致を怒り、自らの帰途の安全が保障されないことを知ると、「このような不徳義の国には帰りたくありません」と云う口実で、帰国しないで我が国に留まってしまったと述べ、そして、「いま、河内国更荒(ささら)郡??野(うの)新羅人の祖である」と記している。
 日本書紀は、その使人の名を記していないが、姓氏録はその名を「金庭興」と記し、その子孫が宇努連(うぬのむらじ)であると述べているのである。

 更荒郡鵜野邑(ささらぐんうのむら)すなわち、讃良郡鵜野村(ささらぐんうのむら)。これが持統天皇の皇女名の由来なのである。讃良郡鵜野村に住む宇努連(うぬのむらじ)出身の女性が彼女の乳母であったのだ。鵜野村は現在の四条畷市岡山のあたりと比定されている。そう云えば、そこを東から西へ流れる川は讃良川である。

 鵜野讃良皇女は一度は、その乳母の村を訪ねたに違いない。そして、村をあげての歓待を受けたに違いない。何と云っても、今をときめく、やんごとなき姫君の訪れである。村人たちは総出で、有りったけのご馳走を作り、精一杯着飾って、故国の歌を歌い踊りを踊ってもてなし、くさぐさの品を献上する。彼女の方もまた、それに倍する品を村人たちに贈る。宴の広場には日差しが暖かく、桜の花びらが時折り風に舞って散っていた。そのような光景が私の目蓋に浮かんでくる。

(註)「うのささらのひめみこ」の「う」は正しくは「廬」に「鳥」旁である。また、「うのむら」の「う」は、左の「う」と、「茲」に「鳥」旁を書いた字を並べて記すのが正しい。

(写真は福岡在住の女流博多人形師川崎幸子の作品)