小さい頃に住んだ家。
お気に入りの部屋。
人は空間の中にそれぞれの記憶を持っています。
そこに生きてきた人々の記憶を映し出すものが「建築」とは言えないでしょうか。
今一つの建築物が取り壊されようとしています。
戦時中この地から多くの若者たちが戦地へと送り出されていきました。
(「君が代」)バンザーイ!僅か21年後。
(ファンファーレ)オリンピックのメイン競技場となったこの場所は今から5年後の2度目の世界の祭典のために解体作業が進み時代の使命を終えようとしています。
この建物が見た人々の記憶はどこへいくのでしょうか。
時代に求められて建ちそしてまた時代に求められ壊されていく。
建築はその時代を目撃してきました。
戦後復興のシンボルとなった東京タワー。
この鉄骨が実はアメリカの戦車から出来ている事をご存じでしょうか。
そのころ日本は朝鮮戦争への武器提供などによって特需景気を迎えていました。
戦争は3年で休戦しその後アメリカは軍需物資を安く日本に払い下げます。
まだ鉄鋼の高炉会社が育っていなかった日本は手に入った戦車をスクラップして素材とし東京タワーに使用したのです。
当時自立式電波塔として世界一高かった日本の復興のシンボルは駐留軍アメリカの戦争の対価から出来ていました。
54年後世界一の電波塔は最新鋭の技術の粋を集め建ち上がりました。
今度の鉄骨は日本全国の工場から運ばれ接触面は3次曲線。
3次元設計技術が駆使されておりこの間の日本の発展の証しです。
私たちが見てきた風景は日本の戦後をどのように映し出しているでしょうか。
戦後70年の今年焼け跡から始まった日本の歩みを時代と共にあった建築物からたどりこの国の記憶の戦後史を旅します。
共に旅する人は…少子高齢化する日本のこれからの建築の在り方を追い求め自治体や住民と共につくる建築の姿を模索する建築界の若き俊英。
38歳の彼の目に映るリアルな戦後日本とは?そして今未来とは?この渋谷駅はこれから超高層が6本建つと言われていて立体的に入り組んだ所に更に超高層を6本建ててしまうというこれはものすごく難しい技術だと思うんですけれどもこういった非常に複雑な構築物を建ててしまうのがそれこそ日本の戦後建築史の成果なんだと思うんですね。
その時代に正しい建築があとから見るとその時代を映す鏡になる。
そういう側面が建築にはあるんじゃないかと思うんですね。
私たちはどんな風景の中を生きてきたのでしょう。
そしてどんな建築に希望を見いだすのでしょう。
1945年アメリカ軍が撮影したフィルム。
当時の日本の姿が克明に残されています。
東京は空襲で面積の3割を焼失。
戦時中のチャーチルの言葉です。
実は今の東京の街路の多くはこのころの区画整理に基づいています。
敗戦から僅か6年で完成した一つの建物は当時の人々の目に驚きをもって映りました。
戦後日本で初めて建った公立の近代美術館です。
当時中学生ここ鎌倉に生まれ育った高柳さんの証言。
階段のステップからそれから中へ入る空間ですね。
今までとは違うものは感じました。
日本を暗黒の時代と表現されてるような時代だったわけですね。
それがあの白いトーンの大きな器が出来たという事はなんか時代のひらめきというか地域発展のシンボルになったというふうな事は感じてました。
最初の展覧会は印象派展。
当時の大人たちは皆久々のおしゃれをし出かけていったといいます。
建物の1階部分柱でせり上げた「ピロティ」という造りになっています。
ピロティは日本の建築家の多くが戦前にヨーロッパで学んだモダニズムの建築手法。
これにより池との連続性内と外を結ぶ開放感が生まれています。
西欧で生まれた理念であるモダニズムを当時の乏しい資材でなんとか日本に根づかせようとしました。
それが不思議と細部に日本的な風情を生み出しています。
外から見るとコルビュジエ流の近代建築なんですけれども中に入ってみるとすごく和風建築に見える所で当時の感覚でもすごく新しいなという思いと受け入れやすいという思いと両方気持ちを持ちえたんじゃないかなという気がしますね。
設計の坂倉準三は戦前パリで学び近代建築の父ル・コルビュジエの薫陶を受けパリ万博で日本館を設計。
コルビュジエに代表されるモダニズム建築。
その象徴がピロティでした。
柱のみで構成された1階部分。
機能性を重んじる設計思想が開放的な空間を生み公共性が実現されています。
近代的な合理性が生んだ思想は内と外を隔てない日本人の美意識と呼応しているのかもしれません。
近代建築の日本人としての理解。
そのれい明期を支えたのが坂倉でした。
それは素材からも見て取れます。
壁は下の方が大谷石が使われていて上の方はボードをアルミで押さえるというような工業製品が使われているんですけれどもこういう地域にあるような材料を使う事とどこにでもある工業製品を組み合わせる事がこの時代の建築家の一つの課題だったと思うんですけれどもそういう意味ではその当時の課題に対して非常に鮮やかに応えた例かなというふうに思うんですけれども。
モダニズムと日本文化の融合の形。
空間の力で人々は新時代の躍動感を体験しました。
戦後の欧米の近代建築と日本らしさの融合。
その試行錯誤は既に戦前から始まっていました。
西洋近代的な土台の上に瓦屋根そしてしゃちほこが載っています。
「帝冠様式」という不思議な西洋と日本の折衷。
日本の建築史は古代・中世では中国近世ではヨーロッパの文化を受け入れそれを独自に和様化し枯れ山水庭園や木造建築などを生み出していく。
時代ごとに受容する外国文化は変わっていきましたが島国日本の文化は常に大国の文化との対話の中で築き上げられました。
世界の文化を受け止めてきた日本。
それが第2次大戦で一度切断されたのです。
戦後建築家はそれぞれの近代建築への思いと自らの創造性を花開かせました。
壊れた街を近代の理性の力で再建する。
もう一人の建築家が考え抜いた場所があります。
明日の式典を前にこの場所には独特の緊張が漂っていました。
(式場内アナウンス)「黙とう」。
(鐘の音)あの日あの時間皆が共有する記憶に祈りをささげます。
この場所を貫いているのが原爆ドームに続く一本の軸線です。
原爆投下の4年後この場所を平和の礎にしようと建築コンペが行われました。
設計課題は2つの川に挟まれた中州地帯。
中州の中心に公園や施設を建てる案が多い中建物を端に寄せ中心を空けそこにまっすぐ線を引く異色の提案がありました。
設計者は丹下健三。
当時36歳。
東大で研究室を持ち仲間と共にコンペに参加し1等を取りました。
丹下は高校までを広島で過ごし母を原爆の日にあった今治空襲で亡くしていました。
破壊された街に設計された空間は整然とまた神々しくもありました。
廃虚から立ち上がる建築の力強さ。
丹下自身は伊勢神宮をモチーフにしたと言っています。
平和大通りから縦にまっすぐドームへと連なる広場に対して資料館のピロティがゲートとなりその先の慰霊碑のアーチと二重に重なります。
人々の視線をアーチの先のドームへと導く見事な空間設計です。
当時この場所はまだ被災した人々のバラックが建ち並び記念公園よりも住宅を優先すべきという反対もありました。
原爆ドームも悲惨な記憶がよみがえるという理由から取り壊しが検討されていましたが丹下はドームを残すよう当時の広島市長に訴えています。
被爆5年目の式典になんとか間に合わせるよう急ぎ工事が行われました。
式典には5万人が参列しました。
(アナウンス)「供養塔の前に参拝する人々は…」。
さまざまな人がいっとき自分の立場を超え心を重ね合わせる場になります。
丹下は言います。
「平和は自然からも神からも与えられるものではなく人々が実践的に創りだしてゆくものである。
この広島の平和を祈念するための施設も与えられた平和を観念的に祈念するものではなく平和を創りだすための工場でありたいと願った」。
原爆ドームに連なるこの広場は一人一人の記憶を超え日本人が集団として持つ悲劇の経験が空間化されたのです。
実は藤村もまたこの空間に当事者として訪れていた一人です。
私の父は1945年の原爆の投下の時にちょうど17歳でこの広島市内で被爆をしたんですけれども夏休みなどに時々父に連れられてこの公園に来たりしていました。
この公園があってああいう舞台があるからこそ広島市長の平和宣言っていうものがこんなにも政治性を持って日本の都市にあるというのがそういう空間がつくってる部分も大きいんじゃないかなと思って。
丹下の個人的な体験も思いもあるでしょうしなみなみならぬ決意があったんじゃないでしょうかね。
丹下は後にこう述懐しています。
来る度におっしゃったようにこう緑が育って非常に美しい平和公園になってきたと思うんです。
しかし一方非常に悲惨な生臭いようなそういう状況の中で考えた事とだいぶイメージが変わってきてそういう原爆の体験経験が非常に薄らぎ始めているんじゃないかっていう心配が一方ではあるような気がするんです。
平和を祈念する公園にし更に平和を推進するための拠点にしようという考えを持った時にもやはりその中で一番大事だった事はこの記憶をどういうふうに正確に正しく鮮烈に伝えていくかという事であったと思うんです。
世界が注視していた悲劇の場所を近代建築の成果で生まれ変わらせた一つの記念碑的解答でした。
テレビが普及し大衆文化が花開いた時代。
「もはや戦後ではない」と宣言され復興は終わり成長へ。
この国はどこへ向かっていったのでしょうか。
敗戦後の青空を見上げたようにこの時代の人も空を見つめていました。
日々をたくましく生きようとする人々にこの国の成長が支えられた時代。
勢いをつけたのはオリンピックの決定です。
急に決まったオリンピック。
土地を買い上げる時間はなく高速道路は河川の上に。
日本橋の上にも首都高が通ります。
「今東京の日本橋を渡って心の解放をおぼえる人があるだろうか。
ここには空も水もない。
あるのはよどんだ真っ黒の廃液と頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路である。
そこを通るとき私たちはこちらからあちらへ渡るというよりは潜るという言葉を味わう。
鋼鉄の高速道路で空をさえぎられたこの橋は昼もなお薄暗き影の十何メートルになってしまったのである」。
人々の気持ちを代弁するかのような作家の嘆きをよそに開発は急ピッチで進みます。
砂利道は広い幹線道路に生まれ変わり僅か2年という短い工期で新幹線の線路が敷かれます。
国の成長を背景に東京は人口が増え続け満員電車や渋滞が問題化。
建築家たちはこの都市の変化に敏感に反応しました。
当時の丹下健三研究室は都市の人口動態や過密問題を分析し一つの思考実験を世に問います。
東京湾から千葉の木更津にまっすぐの軸線を引き線を中心に築いた海上都市に都市の機能を拡張させようという壮大な計画でした。
時前後するように大学や研究室を超え若手建築家らが斬新な思想を提案します。
成長する都市に有機的に自己増殖する生物の理論を応用したのです。
世界デザイン会議で発表された彼らの都市の捉え方は世界的にも注目される建築運動となっていきます。
菊竹清訓の空に浮く家。
海に浮遊する海上都市。
やはりもっと人間性の豊かな多様な要求を満たす自由な空間をなんとかして開発したいとそういう欲求があるわけですからそういうものに対してこの海上空間というものは新しい課題として我々の目の前に現れてきたというふうに言っていいんじゃないかと思いますね。
菊竹は海の実験をその後も繰り返し15年後沖縄海洋博覧会で海上都市を実現させます。
こちらは黒川紀章の水田の上の空中都市。
DNAの二重らせん構造をモチーフにした「東京計画」。
(黒川)まあ言ってみますと建築というのが生命体と同じようにどんどん激しく新陳代謝し始めたという事じゃないかと思うわけです。
いわばちょうど自動車と同じようにどんどん古くなっていったところから取り替えていけるようなそういう考え方をしなければいけないというのがこれを私はメタボリズムという考え方と呼んでるわけですけど。
メタボリズムには参加しなかった磯崎新もまた「空中都市」を描き大高正人と槇文彦は生命体のように生成する都市「群造形」を発表。
海上や空中へと展開した彼らメタボリストの未来都市はこれまでの論理を超えた東京という超過密都市の課題に日本人が出した独自の解答でした。
メタボリズム以来都市に開かれた建築を追求し代官山ヒルサイドテラスを設計した槇文彦です。
やっぱり時代っていうものが1つ大きなファクターとしてあってでそこではみんなが将来に対するある展望とか希望を持っててそれをお互いにシェアするというような事があったんですが現代と比べてみるとですね確かに何か熱いそういう情熱みたいなものを交換し合うというそういう時代だったと思います。
成長する時代を背景に情熱は高まっていきます。
その一つの頂点がオリンピックです。
すごいですね。
東京中が見渡せますね。
周りは普通の住宅地ですから。
そうですね。
こういう所にこういう競技場が建ってるっていうのが東京らしいといえばらしいですし。
やっぱりここに建って東京って感じがしますよね。
ヨーロッパにはない感じの独特の景観っていう感じがします。
オリンピックの開会式は戦後僅か19年で見事に復興を果たした日本を世界にアピールする場になりました。
「第18回近代オリンピアードを祝いここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」。
このオリンピックでもう一つ世界に名をとどろかせた建物があります。
そこには都心最大規模の米軍キャンプがありましたが国を挙げて返還交渉を行い敷地を確保しました。
丹下と研究室のもう一つの代表作です。
2つの体育館共に貝のような渦巻き型が特徴と言われています。
渦巻き型は「巴型」とも呼ばれ日本を世界にアピールするための「和の形」と言われていました。
水泳用のプールとして造られた第一体育館は1万5,000人収容。
当時としては最大級の屋内競技場です。
吊り屋根構造が生む軽やかな飛翔感と水平に伸びる視界がこの空間をどこまでも広がっていると錯覚させます。
大きくたわんだ吊り屋根構造がこれだけの大空間を覆うのは世界で初めての試みでした。
「吊り屋根構造」とは2本の巨大な柱の間に渡したメインケーブルの左右にワイヤーロープを張りその上に鉄板の屋根をかける。
これにより柱が一本もない巨大な空間を創り出す構造です。
来日した選手や大会関係者は皆一様に感動したといいます。
アメリカの水泳団団長の言葉です。
特殊な吊り屋根技術を支えた構造化設備施工。
世界最高峰の技術が集まっていました。
丹下は国際オリンピック協会から建築家としては異例の功労賞をもらいます。
日本の目覚ましい復興の成果は建築を通して「技術のニッポン」として世界にとどろいたのです。
この辺りが一番特徴的だと思うんですけど人の動きを誘導するこういうカーブと屋根がつくるこういう雄大なカーブがせめぎ合う場所が一番この建築の凝縮された部分かなと思っていて大量のお客さんが試合が終わったあとにワーッとはけていくのが浮かぶようなそういうカーブだなと思いますね。
1万5,000人の観客が2つの出入り口にスムーズに移動できるよう緻密に構造計算されています。
スケッチは250枚に及び計算によると巴型の両極の開放面を出入り口に設計すると5分で全員が避難できる。
群衆の動線を真っ先に考えていました。
丹下の思考が分かる部分がもう一つこの場所にあります。
丹下さんの十八番は大きな施設と小さな施設っていうのを並べて建てて間に道を通すっていうそれが丹下さんの十八番ですけどもこの大きな第一体育館と小さな体育館があってそこの間にこう軸線が通っていったっていうのが面白いところかなと。
建物本体が真ん中にくるんじゃなくて真ん中に道があるんですよね。
そういうふうに群衆をイメージしながら設計ができた建築家って多分そんなにいなかったんじゃないかと思うんですけれどもその真骨頂が恐らくこのところでこういうふうになだらかな通路をたどってそれがこの吊り構造の大きな構造のケーブルの下にスーッと吸い込まれていくという。
これが丹下流の非常に美しい融合だったんじゃないかなと思うんですね。
丹下の右腕として設計に携わった神谷さんが語る巴型の意味です。
形をね合理的っていうか考え方が非常に合理的に考えて発想していきますからだから出てくる形も合理的であると同時に非常に感性豊かなねまあ一種のあれは渦巻きの変形ですけどもそれが出てくるわけですね。
丹下は言います。
巴型は世界にアピールするための単なる和の美ではなく合理的機能的であれというモダニズムの精神を建築家が正確に受容し日本の美と統合して出来た形でした。
世界に復興をアピールし上昇を続ける日本。
歩みを共にするように建物も高く高くそびえ立つ事になりました。
そのビルとは?
(雄たけび)国民的番組「ウルトラマン」にも登場した日本初の高層ビル…関東大震災のあと規制されていた建物の高さ制限が戦後撤廃され日本にも超高層ビルが建てられるようになったのです。
当時はたった一つそびえる輝かしいビルでしたが今では他のビルに埋もれるように控えめに建っています。
当時の新聞や雑誌を見ると日本最初の高層ビルへの驚きと注目度の高さが伝わってきます。
空が競争の場となる事への驚き。
高度な耐震技術への驚き。
そして今では当たり前となったフロアに柱がない事もこんなに驚いています。
高度経済成長と共に都市の密度が上がり国土も狭い日本は上へ行くしかなかったとも言えます。
こうして西洋に追いつけ追い越せとしてきた日本の建築は急速に独自の発展を遂げていきました。
その一つの頂点が大阪万博です。
6,400万人が詰めかけましたテーマは「人類の進歩と調和」。
最も目を引くのは300m×100mの大屋根がかかるお祭り広場とそこから顔を出す太陽の塔。
700個のスピーカー360度回転する照明がコンピューター制御される技術を凝らした仕掛け。
世界77か国が参加。
各国のパビリオンも国の建築家が腕を競い合いました。
日本も時の代表的建築家が参加。
「未来都市」と名付けられた会場はさながら建築のオリンピックでした。
いいお父さんですねぇ。
後に携帯電話として実用化されるワイヤレスホンも万博で発表。
科学技術が開く夢の未来が信じられていました。
一方一人の中学生がこの万博を異なる視点で見ていました。
おはようございます。
後に建築家となった…黒川さんも菊竹さんも生物的なものを目指して建築は新陳代謝していかなきゃいけない。
で20世紀の固い建築に対して生物的な建築を目指すって言っておきながら万博の彼らの建築は機械そのものって感じでごつかったし素材感も鉄とかコンクリートがすごく表に出ていてえっ!?で出来たものがこれじゃちょっとまずいんじゃないかっていう感じ正直しましたね。
輝かしいと思ってた日本の高度成長とかねあるいはその工業化。
それまでかっこいいんだと思ってたわけですよ工業化って。
新幹線もすげえなぁっていうふうに思っててでもそういうものって実はいろんな悪事を人間に対して働くんだなぁ。
タイトルが「進歩と調和」っていって調和の方に重きを置く論調も結構あったんです。
で万博はなんか時代遅れのイベントじゃないかってそういう論調にもすごく共感してたしああやっぱし工業の時代とか成長の時代ってもう駄目なんじゃないかなぁっていう感じが万博ではっきりしたんですよね。
実は岡本太郎の太陽の塔は縄文時代の呪術的なモチーフで進歩とは逆方向を向き屋根から顔を出していました。
万博は進歩の時代の一つの折り返し地点だったのかもしれません。
華やかなパビリオンは終わるとすぐ跡形もなく壊されました。
万博の2年前世界では学生たちの反乱が起きていました。
モダニズムの背景にあった近代の価値観への疑いです。
その波は日本にも広がりを見せます。
この年熊本県水俣で発見された病気とチッソ工場の排水との因果関係を厚生省が初めて認めました。
成長の光と闇。
急激な成長のスピードの代償である陰の部分が噴出しながらも日本は上へ上へと進んでいたのです。
同じ年川端康成はノーベル賞を受賞。
「美しい日本の私」と題した講演を行います。
和歌の深淵さによって日本の美をたたえ世界の話題を集めましたがこれを祝った三島も川端もその後自ら命を絶ちます。
川端がたたえたかつての日本は急速な変化を遂げていました。
東京・新宿。
今は1階が自動車道路地下1階は西口通路です。
しかしここはかつて「西口広場」と呼ばれていました。
そこで行われたのがベトナム戦争に反対した反戦フォーク集会です。
(ギターと歌声)大学への抵抗日米安保反対。
そしてベトナム反戦運動が学生の心情に複雑に絡み合っていました。
(ギターと歌声)しかし程なく…。
警察が介入しここは広場ではなく「通路」に変更され運動は活動の場を失います。
実はこの新宿西口広場をつくったのは神奈川県立近代美術館を設計した…戦前コルビュジェをはじめ欧米の建築家が開催した近代建築の国際会議CIAM。
ここでは都市のコアとして広場の重要性がうたわれていました。
戦後の日本の建築家がピロティや広場という公共的な場所を重要視したのはこの欧米の近代建築の思想が受け継がれているからでもありました。
ここで学生運動が最後の盛り上がりを見せたのは空間の持つ力があったからかもしれません。
日本はある意味では駅前に集まるという事がある種のタブーになったと言えるんじゃないかと思うんですけどもサッカーのワールドカップで日本の代表チームが勝ったとしても若者が集まるのは横断歩道上の通路で信号を行き来しながらハイタッチをするというようなそういう非常に日本的な動きを生むもとになっていてその原点がこの新宿西口広場にあるんではないかと思うんですよ。
日本はこうして人々が集まる空間を失い個人へと閉じる傾向が強まっていきます。
次なる建物は個人のための究極の形。
首都高を汐留に入りしばらくするとカーブを抜けた所にひときわ目立つ建物が…。
ちょっと古びてしまいましたが当時は最新鋭。
「メタボリズムの代表作」と言われた建物です。
ドラム型洗濯機のような真四角のカプセル。
「ビジネスマンのセカンドハウス」がコンセプト。
設計したのはあのメタボリズムの…エレベーター配管などは木の幹のように中心のコアの中に収められ居室カプセルが葉っぱのように幹に取り付けられています。
不具合が出たらカプセルごと取り外し修理に出せるというコンセプトでしたが40年余り一度も取り替えられぬまま現在まで至っています。
この建物にお住まいの石丸さんを訪ねました。
(ノック)
(石丸)は〜い。
こんにちは。
おじゃまします。
すごくきれいに住んでらっしゃいますね。
結構窓大きいですね。
この部屋の大きさに対してはかなり大きいんですけどもどうしてもこれぐらいないと圧迫感があるというか。
のぞいてもいいですか?
(石丸)はいどうぞ。
お〜ユニットバスですね。
(石丸)はい。
今はお湯が出ないのでお風呂としては使ってないので。
よく「あああそこ住めるんだ」と言われるんです。
「使えるんだ」とか。
「まだちゃんと使えるんだね」ってよく言われるんですけれども実際中を使ってる方とかと交流していくと非常にこの建物大事に思ってる方が多くて幸せな建築だなと思います。
石丸さんはここをシェアオフィスとして有効に活用しているといいます。
では黒川はそもそもどんな考えでこのカプセル空間を建てたのでしょうか。
おおすごい。
は〜。
オリジナルに最も近い部屋です。
これは開ける事ができるんでしょうか。
はい。
これはオリジナルの家具ですので開けると開閉式のデスクになっておりましてカプセルのコンセプトがビジネスカプセルなので基本的にはここで仕事をしていくという形になっているかと思います。
あとオリジナルでいうとちょっともう古めかしいんですけど昔の…時計ですか。
組み込まれている。
(前田)はい。
組み込まれている時計があったりとかテレビはこれは枠だけなんですが当時やっぱりソニーがものすごくはやったというのがあるのでソニーで全部そろえてるような状況ではあります。
これそしてここに…おお!キッチンが組み込まれているという。
全体のディテールがすごくこう未来的ですよね。
これどちらかというと建築のインテリアっていうよりは飛行機のインテリアとかロケットスペースシャトルみたいなそういう乗り物のインテリアっぽい感じがしますね。
黒川は言います。
「人間が考える事だけに満足したり『つくる』事に喜びを見いだしたりするにはこの現代はあまりに流動的であり激しく変化しすぎる。
私は絶えず移り変わる問題の底に等しく共通する問題の捉え方といったものがある事に思い至った。
それは『動く』という事が現代社会に対して持っている意味を考えるという事である。
すなわち人間の新しい価値としてのモビリティー移動可能性である」。
カプセルは時に家族や社会から逃れ個人を自由にする巣のようなもの。
来るべき時代の世界を動き回る個人を予見した提案でした。
現代のハリウッド映画がここをホテルと想像するのは実は本来の使い方。
黒川紀章はカプセルホテルの生みの親。
世界で最初のカプセルホテルをつくったのも黒川なのです。
今世界でも注目される日本のカプセルホテル。
黒川がこの時代にイメージした世界を飛び回るビジネスマンの姿はこうして現代にまで続いています。
個人が一人一人に閉じていくように家族もまた核家族化していきました。
そのころ盛んに新聞広告が人々に呼びかけていたのは…60年代は高度経済成長とともに都市に人口が集まりました。
70年代ベビーブームの到来で家族はどんどん小さなユニットに。
都市では住宅が不足。
その逃げ道として郊外への移住が始まっていました。
1971年日本最大のニュータウンが誕生します。
全体計画はメタボリストの一人大高正人が手がけました。
そのころ急速な工業化による開発で日本の山河は荒れ大高は国土を保全したいと考えていました。
まず多摩の自然地形を調査し集落のある谷を避け尾根部分に開発を限定。
更に駅から続く道に人工地盤の通路を設置。
機械空間と人間空間の分離。
これは彼がもともと抱いていた理想です。
ここは広島で戦後バラックに住んでいた住民に移り住んでもらうために造った超高密度の集合住宅です。
道路から一段上がった場所に人工地盤を設け車道と歩道を分離し人工地盤の上を緑化人間空間を機械的な空間から開放する。
このプランをニュータウンに実践しようとしていました。
「ニュータウン」と聞くと近代的人工的な計画をついイメージしがちですがそこには秘められた理想があったのです。
その後一つの地方の未来像を示したのがこの人物です。
(田中角栄)「まだまだ日本にはた〜くさん土地がありますよ!これを新幹線に結べば高速道路で結べば飛行機で結べば大した事はないじゃありませんか!そうすれば周りに少しは緑のある所を…考えればどうするんですか。
そこで日本列島改造というのが出てくるんですよ」。
角栄は言います。
「都市と農村の発展のアンバランスは今や頂点に達しつつある。
こうした現状を思い切って改めなければならない」。
日本は三大都市僅か国土の1%に人口の32%が住んでいる。
この偏りを解消するため全国に鉄道を敷き山や河川を切り開く大規模な公共事業が目指されました。
実は藤村もあるニュータウンで育ちました。
新しい町によってどんな時代の精神が育まれたのでしょう。
いわゆる多摩ニュータウンだとか大規模ニュータウンの開発が大体ひと段落したあとで民間のデベロッパーが郊外開発をするようになった頃のその割と初期の例だと思うんですけれども。
非常に理想がこう…何ていうんでしょうかね機能してた時代の都市計画という感じがしますよね。
ですから計画する側が誇りを持っている感じがしますし自分たちの計画によってよりよい町が出来るんだとかよりよい景観が出来るんだと信じられている感じのニュータウンだなと今見るとそんな感じがしますけどね。
自然の集落とかあるいは自然の都市こそがすばらしいのであって人工の都市というのは均質であるというような理解というよりは人工の都市にもそういう豊かさがあるんだというふうに割と素朴に信じられるというかそんな気がしますけれどね。
都市からあふれた家族の受け皿になったニュータウンの背景には人がつくったものへの信頼があったのです。
「モーレツからビューティフルへ」。
当時はやったCMは時代の空気を捉えていました。
日本人はいつでも猛烈に働いていました。
高度経済成長を成し遂げた日本はオリンピック万博の華々しさを経験しました。
時代は重工業産業の重さから情報産業の軽さへ。
生産から消費や感性の軽さへ時代の気分は移っていきました。
坂の多い渋谷を歩き上り坂でふと目を上げると交差点に建つひときわ目立つ白い建物。
なじみのある風景です。
「PARCO」はイタリア語で広場公園を意味します。
ここを公園通りと名付け坂道をスペイン坂と命名。
渋谷を地中海に見立てていきます。
商業施設が街全体を演出しようとする画期的な新しさがありました。
ちょうど同じ年銀座ではスイスの空気が売られボトリングされた天然水も発売されます。
高度な消費社会に入った日本。
一方でオイルショックが起こり経済成長が今のままの形では不可能になったそんな時代。
ちょうどいわゆる大きな都市計画だとか理論に基づいて建築を造るという事から少し人々に寄り添って大衆とコミュニケーションしながら新しいイメージを作って建築を造るというようなそういう新しい考え方が出てきたそういうタイミングだったと思うんですけれども。
すごくコンセプトを大事にする姿勢がこのころから出てきたんだと思うんですけれども。
ガラス張りのこのエントランスの感じとか広場があって直接店の中が見えて目の前でイベントやってるというような今で言うとすごくこれは一般的なんですけれども多分これは当時すごく新しかったんじゃないかなと思うんですよね。
もっと百貨店というのは威風堂々と構えて重厚感があってむしろ扉は重たくてというような。
これを構想した増田通二さんという方はこれをガウディと見立てたそうですけれどもみんなが心にパッと抱けるようなヨーロッパの中での大聖堂のイメージで渋谷の坂道にこういう建築が建つんだっていうそういう思いでこれを計画されたそうなんですけれども。
バルセロナの街からサグラダ・ファミリアが見えるように渋谷の坂道からこの白い建物が見える。
そんなイメージだったといいます。
その後この大手流通グループは劇場や書店など文化施設を形づくり渋谷の文化を推進していきます。
街全体を劇場に一人一人がその主役。
渋谷は若者の街として育っていきます。
時代は女性誌「an・an」が創刊以来毎月50万部販売。
広告イメージショーウインドー…物語の中での消費に街も建物も呼応していきました。
建築がけん引する消費の形の発展形が登場します。
当時日本一の高さを誇るオフィスビルを中心に水族館ホテルショッピングセンターを併設させた総合ビルです。
当時池袋の都市計画プランに既に「劇場都市空間づくり」と記載されていました。
サンシャインシティっていうのは「シティ」って名前が付いてるように大きな巨大開発の中にそれ自体が都市になるように造るといった最初の巨大開発なんじゃないかと思うんですけれども新宿超高層が1本ずつタワーを建てていたのに対してこれは霞が関ビルや新宿超高層と違って超高層の周りに都市をつくったという。
それが特筆すべき事なんじゃないかなと思うんですけど。
オフィスだけじゃなくて商業施設があってホテルがあって更に博物館があって水族館があって全体がパッケージされていて何ていうんでしょうね…幕の内弁当みたいにというか御飯からおかずまでデザートまで全部ありますというようなそういうパッケージになってんじゃないかなと思うんです。
その後アークヒルズだとかあと恵比寿ガーデンプレイスだとか全体が島状になって都市の空間の中にポッカリと都市が出来上がるというようなそういうシリーズが続いていくと思うんですけれどもその原点がこのサンシャインシティじゃないかなと思います。
俵形の御飯に焼き魚卵焼きかまぼこ煮物どれもちょっとずつ箱に詰める幕の内弁当。
小さい空間にギュッと詰めるのは日本人の得意とするところ。
総合ビル開発もさまざまな要素を一つの建物の周りに同居させる建築における「日本」を形にしたものだったのかもしれません。
サンシャインシティは日本的な巨大ビルその高さ競争の一つの最終形でした。
振り返ってみましょう。
1968年の霞が関ビルを皮切りに毎年高さを競う高層ビルが建っていきました。
2つ目は1970年に建った…見渡すとまだライバルは霞が関ビルしかありません。
翌年新宿に建った京王プラザホテルが3つ目。
建設中のホテルから見渡すとまだ他に2棟しか東京には高いビルがない事が分かります。
京王プラザホテルが竣工すると新宿には毎年ビルが建ち新宿副都心は今のような摩天楼に育っていきました。
1968年から70年代後半まで続く「日本一」の高さを競う巨大建築。
それはまるで日本の株価がどんどん上がりバブルに突入するそんな国のすう勢と歩みを共にするようでした。
80年代に入ると中曽根内閣が規制緩和を推進。
前進していかなければなりません。
高層マンションや総合ビル開発が進むきっかけになります。
地価は高騰。
バブルへと駆け上がっていきます。
翌年時代を象徴する一つのランドマークが完成します。
2次元のおとぎ話は3次元の夢の空間として目の前に現れていました。
ディズニーランドの成功をきっかけに全国でテーマパークやリゾート開発が盛んになります。
戦後40年がたとうとしていました。
この時人々は歴史からいっとき解放されフラットに生きる「自由」を与えられたのでしょうか。
そのころ建築界にも新たな波がやって来ます。
ポストモダン建築です。
モダニズムの特徴は機能性合理性理性を信じる静かな精神でした。
しかしポストモダン建築はこの近代の合理性の限界と曲がり角を映し出していました。
高度経済成長を終えた都市や社会の複雑さや目に見えにくい情報と建築家は正面からぶつかり時代の空気を形にしていました。
そして複雑な時代への解答としてもう一つの「形」が新宿に出現します。
新宿都庁です。
丹下健三の集大成となった仕事。
巨大ビルの行き着いた頂点に見えますが実は丹下はこのビルに次の時代の予兆を織り込んでいました。
近代建築というのは何といっても工業化社会の一つの表現ですからその時代といいますのは物に価値を置いた時代だったと思います。
しかし情報化社会の時代に入ってきますとやはり物ではなくて情報…情報にはいろんな種類があると思いますけど科学技術とかそういうものからやはり感性とか心とか形のないそういうものが感性的に訴えろというふうな事がどうしても必要になってくるんじゃないかと思っておりましてシンボリックな建物をつくると。
21世紀に向けて東京が世界に誇れるようなこれが日本の顔だと言えるようなものが持てればいいなという希望が実は託されているわけなんです。
成功しているかどうかは皆さんの批判に仰がなきゃいけないんですけども。
実は都庁をめぐってバブルの入り口86年に戦後最大のコンペが行われていました。
提案されたのは全て超高層。
そこに一人挑戦状をたたきつけるかのような中層案を出したのが磯崎新です。
超高層でしたらねこれは恐らくもう5年以内に民間のタワーが東京都内にも僕は必ず出現するだろうと思います。
そうすると都庁がいくら今頑張ってタワーを造ってもこれは最高の高さはたちまち追い越されるというのはこれもう宿命ですしそれ以上のものにはならない。
磯崎は超高層ビルの代わりにここに広場を造ろうとしていました。
市民のための公共の場所を。
全市民が集いどんな活動も行う事のできる可能性としての空間です。
高さの競い合いという垂直の力ではなく水平に人とつながっていける民主的な広場の必要性を磯崎は時代から感じ取っていました。
しかしコンペは丹下が勝ち新宿には東京のシンボルが出現します。
高さの競い合いではない別の可能性がありえたかもしれませんが人は東京に巨大ビルで出来た森を造りました。
都庁竣工の数か月後…。
より高く上を目指した日本は突然突き落とされます。
日本は失われた10年。
いや今や20年と呼ばれる長い低成長時代に入っていきます。
これ以降時代の建築を見てゆく時それは前時代の夢や理想が失われた20年にどうなったかそれを確かめる行為になっていきます。
1995年私たちはある切断を経験します。
(実況)「非常に広い範囲で火災が発生しています」。
震災で日本の都市インフラの安全神話が崩れ住む建てる事への大きな疑問符が生まれました。
オウム真理教は若者の居場所の問題を突きつけていましたが3月最悪の事件が起きます。
いみじくもこの年はインターネット元年。
人々の価値観が揺るがされたこの年一つのアニメが社会現象に。
(荒い息)逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ。
やります。
僕が乗ります。
何かが止まったようなあるいは何かが動きだしたようなそんな複雑で見渡す事のできない時代が始まります。
バブル崩壊後地方の風景はどう変わっていったでしょうか。
列島改造論以降郊外は都市とバイパスで結ばれていきますがそれは地方を急速に画一化消費社会化していく事になりました。
大型のショッピングセンターが出来始めます。
ドラッグストアホームセンターなど隣接する地域に同じ業種が複数出店しています。
こういう郊外型のショッピングモールが出来た事によって例えば子供を持ってらっしゃる方とかお年寄りとかそういう方にとってはより抵抗なく暮らしができるようにもなってるところがあってやはり人々の利便性だとかニーズを求めていった結果という事はあると思うんですね。
ある種アメリカにずっとお手本があってアメリカ型の自動車中心の郊外型のライフスタイルみたいなものを人々も追いかけてきたし計画する側も追いかけてきたところがあると思うんですけれども。
その結果分かってきた事というのは人はほんとに便利な方向にしか行かないだとかあるいは人はより快適なところに集まる。
それをいろんなところでお互いに仕掛け合っていくと人を奪い合うような街になってしまって少ない人口を多くの人たちが取り合うような街になってしまって結果として全体が沈んでしまうという事が分かってきて今やはりもう一度適切な大きさというのは一体どういうものかというものをいろいろ試したあとでもう一度問い直されているあるいは試し直しているそういう時期なんじゃないかと思います。
地方都市の中心部は空洞化風景は均質化していきますが両方のバランスが模索されています。
では超高層ビルはその後どうなったでしょう。
巨大ビルには時代を巡った事によりある変化が起こっていました。
折り紙や甲冑をモチーフにしたというビルは見る角度や光によって変化する複雑な美しさがあります。
70年代のサンシャインシティは機能的な直線のラインで構成されていました。
一方六本木ヒルズは曲線を多用し単純でないパターンを作り出しています。
1990年以降普及したCADと呼ばれるコンピューターシステムの設計が複雑な形を可能にした事も背景の一つです。
華々しくオープンした新しいタイプの都市型複合施設はヒルズ族という言葉をはやらせIT長者を生み出していきます。
やはり空間として圧倒的に洗練されてると思うんですね。
ですから長時間いてそれが苦にならないようなそういう仕掛けが何十年もやってる間にどんどん洗練されてきた。
そういう成熟みたいのがあると思いますね。
同時に消費社会のいろんな実践の中で消費者の人たちがどういうふうな行動をするのかとかどういう空間が好まれるのかとかそういう事がいろいろ試されてある種ちょっとずつノウハウがたまってきて今は多くの人に好まれる空間の在り方っていうのはこういうものじゃないかというものがいろいろ分かってきたって言うんでしょうか。
直接的に人を引き付けてしまうというかそういうところまで高まってきたのかなと思いますけれど。
CADシステムが可能にした人の感性に響く複雑な形が集客と消費を促すというのです。
更に巨大ビルの建設プロセスにもある変化が。
超高層ビルは大手組織設計でしか引き受けられないサイズとなり表面だけを外国人スター建築家に頼むという分業システムが増えているのです。
表面のデザインはアメリカの設計事務所を内装はアメリカ人デザイナーそして設計は国内のデベロッパーや設計事務所が受け持ちました。
世界中でグローバルマネーが一つの投資先に集まるようになり巨大ビルはその大きなターゲットになっていきます。
そんな状況の中別の道を考える建築家も。
そういう大きな派手な空間をつくんないとまず資本が集められない。
一種の怪獣化してるわけです。
一見すると派手だけど資本のためであって人間のためではないんじゃないかってその餌は。
そういう世の中の仕組みがそういう建物をどんどんどんどん再生産してるわけです。
そういうものと違う建築の造り方が見せてやれないと何かこのジャンルに生きてる人間としてすごい恥ずかしいなと思うんですね。
実際この時代に建築家はグローバルマネー渦巻く都市ではなく地方自治体のコンペや地域に根ざした企業と共に代表作を手がけていきます。
バブル時にオープンした地方のテーマパークは崩壊後をどう生き抜いているでしょうか。
オランダよりオランダらしい1,000年続く街をコンセプトに92年にオープン。
地方で最も大きいテーマパークでしたがバブルが崩壊し経営破綻。
2010年になってV字回復を遂げた観光地です。
企画性の高いイベントが功を奏し近年アジアの観光客を中心に集客がよみがえり地方観光の新たな在り方が注目されています。
すごいですね。
今日本では虚構の力というのはすごく非難される。
やはり本物の歴史に触れようとか本物の景観をつくろうっていう話が非常に多いんですけれども本物の虚構っていうかリアルな虚構の中には案外人々を引き付ける力ってやはりまだ残ってるなという気がしますね。
リアルな虚構。
長崎は中世以来ヨーロッパと交易してきた土地です。
ここは歴史からの断絶ではなくゆかりのあるオランダを再解釈したのです。
実際オランダ政府や王室との信頼関係は厚く本場の宮殿の実測を行い石材を取り寄せオランダにある建物を再現していきました。
そしてここの他とは違う特徴の一つ。
それはテーマパークの中に住める事。
船の停泊所付きの別荘地が建て売りされています。
面白いですね。
住宅開発とこういうテーマパークがセットになってるっていうのはあんまり見た事ないですよね。
実はこのハウステンボスの設計者は霞が関ビルの設計に携わった池田武邦です。
京王ホテル三井ビルなどの設計で指導的役割を果たした日本の巨大ビル建築をリードしてきた人物。
池田さんのその話というのは建築の世界ではあんまり正面から受け止められなかったというかほぼ転向に近い。
モダニストがこういう虚構の世界に行ってしまったというようなそういうニュアンスもちょっとあったと思うんですね。
池田の変化の裏には実は巨大ビルを開発しつつも次第に募る自然への思いがありました。
生態系にとって重要な運河沿いの水際は全て石組み。
コンクリートを使っていません。
海を汚さない排水処理や冷暖房は代替天然ガス。
ここは最先端のエコシティーが目指されています。
モダニズムの経済合理性で造ってきたビルでは解消できなかった池田の思いの結実でした。
外国の建築を学び解釈してきた日本の建築が外国よりもリアルな外国をつくった。
その逆説としての虚構がアジアの人々にアピールしている。
日本の底知れぬ強さがこの建築に映り込んでいるようでした。
そしてこの地には更にもう一つの物語が。
実は現在テーマパークがある土地は戦時中軍の休養地でした。
戦後の全引き揚げ者のがこの湾に立ち寄り軍の休養地で骨を休め故郷へ戻っていったといいます。
戦後広大な空き地となって残った場所がこのテーマパークとして生まれ変わったのです。
土地の歴史をとりあえず一度傍らに置き新たな物語を立ち上げる事によって地域の経済的自立を支えたテーマパーク。
その姿に日本の戦後が重なります。
焼け跡から始まった歩み。
建築家はそれぞれが自分の答えを「形」としてこの土地に刻んできました。
そして2011年の東日本大震災。
災害の多い国に私たちは住んでいます。
そしてこれまでずっとこの壊れやすい国に建築を建ててきました。
今新しい素材を建築家が選び始めています。
隈研吾は樹脂加工を施した木材を。
SANAAは明るく開放的な建築を求め透過性の高い素材を使用します。
ガラスの開放感が環境との連続性を生み出します。
災害地域での建築で知られる坂茂の素材は紙です。
被災地の避難所などで紙と布でシェルターを作る活動を行っています。
石上純也は柱の無い水平方向の視線を追求しています。
それぞれやわらかく透明で壊れやすい素材を選ぶ日本人建築家は海外で受賞しコンペで勝ち世界の資本が集まっているのです。
それは壊れやすい国にそれでもなお建築を建てるという矛盾から生まれた一つの日本的な解答。
壊れやすい弱さという一つの強さなのかもしれません。
戦後70年。
これまで見てきた建築も今いかに維持するかが問われています。
そこに藤村はある使命感を持っていました。
何て言うのか親を見てる気分っていうかひと事じゃない感じなんですね。
適切に手を入れていれば建築っていうのはもう少し長もちするものなんですけれども手を入れないまま使っているとやはりすぐ老朽化してしまうし。
それは人間の体と同じですよね。
この先いろんな公共建築とかいろんな建物が同じような状態になっていってそこにいろんな持ち主の人たちがいてその人たちがどういうふうに合意を形成してその先どうしていくのかという事を話し合わなきゃいけない状況があって。
その縮図だなという。
そこに建築家としての自分の役割があると考えています。
第1回パブリックミーティングを開催させて頂きたいと思います。
手がけているのが大宮。
高度経済成長期の人口増加と共に増えた公共建築の老朽化は今どの地域にとっても喫緊の課題です。
成長期建築にできた事があるとすれば縮小する時代にも建築にできる事があります。
建築と街の将来。
その住民への提案は一つの思考実験です。
あの博物館の隣の敷地が空くわけですよね?都市の将来像を住民との話し合いでつくろうとする試み。
自治体大学住民を巻き込んで民主的に建築や都市の形を共有するための場を生んでいました。
この手法が形になった建物があります。
官民学を巻き込みつくり上げた建築として注目されています。
わざとああいう杉材。
手がかかる材料を使ってんですよね。
それを住民の人たちに自分たちで塗ってもらうと。
自分たちで建物を管理してもらおうって…。
建築が人と人をつなげる場であろうとする一つの模索がここにありました。
さまざまなランドマークに時代の願いを託してきた日本の戦後。
今私たちはいまだ形にならないランドマークを探しているのかもしれません。
戦後70年の旅。
あなたの風景を探してみませんか。
2015/05/03(日) 00:40〜02:10
NHKEテレ1大阪
建築は知っている ランドマークから見た戦後70年[字][再]
東京タワー、霞が関ビル、六本木ヒルズなど今も東京を彩る代表的建築は、いかなる時代の空気の中生まれたのか?名建築から日本の未来への想像力を見いだす。
詳細情報
番組内容
東京タワー、霞が関ビル、六本木ヒルズ…。今も東京を彩る代表的な建築物は、いかなる時代の空気の中生まれたのか?時代のランドマークとなる巨大ビルと戦後のエポックメーキングな出来事を重ねる。戦後70年となる年に、敗戦の焼け跡から現代まで時代と共に変化してきた建築のだいご味を味わう。戦後ニッポンを支えた建築家の、その建築にかけた“思考”や“願い”を見ることで、日本の未来への想像力を見いだす。
出演者
【出演】建築家/東洋大学専任講師…藤村龍至,【語り】松重豊,橋本奈穂子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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