やっぱり新しい出会いがないと刺激がちょっと違いますでしょ?新しい人ってドキドキするし。
独り身なので「どんな人かしら?恋に落ちたりするかも」とか思うとやっぱり扉は開けますねどうしてもその誘惑には勝てないという気がします。
プロデューサー残間里江子さん65歳。
数々の出版やイベントなどを手がけ30年以上トップランナーとして走り続けています。
残間さんをプロデューサーとして一躍有名にしたのは山口百恵さんの自叙伝「蒼い時」。
40社以上から殺到した出版のオファーを断り百恵さんが残間さんをパートナーに指名したのです。
30代で女性誌の編集長に抜擢され田中角栄元総理の独占インタビューを敢行。
テレビやラジオのコメンテーターも務め常に時代と向き合ってきました。
残間さんが何よりも大切にしてきたのは「人との出会い」です。
その原点はふるさと仙台で過ごした少女時代にありました
ひと言でいえばすごく貧乏でしたよね。
母は病弱で寝込んでいてほんとにお米もなければお金もなければいつも米びつの残ってるお米の量ばっかり気にしてる女の子でしたから。
これは私が働いてこの家をなんとかしなくちゃというのは小学校の4〜5年ちょうど9歳とか10歳ですよね。
だから強烈な印象です。
極貧の中でなぜ「出会い」を求めたのか。
それがプロデューサー残間里江子をどうつくってきたのか伺います
残間里江子さんのふるさと仙台市の原町です。
残間さんは人生の転機や大きな仕事に挑戦しようとする時ここに帰ってきます
ここが卒業した原町小学校です。
残間さんが通ってらっしゃった?そうです。
少女時代の記憶をたどり自分の原点を確認するためです
こちらの方に帰る人たちは商店街もあったり…。
右側?はい。
大きな道があったり…の人でなんか裕福な感じがして。
私はこちらの方が通学。
左側がね。
何となく右折組と左折組がこう住宅の編成とか住んでる人たちの趣が違う感じがして。
憧れの…勉強ができておうちも豊かそうな人みんなこっち側みたいな。
いつか右側を…なんか右折する組になりたいななんていうのは小学校の頃に感じてた事ですね。
学校を出て左に向かいかつて残間さんが暮らしていた場所へと案内してもらいました
そうそうここなんですよ私の家があった所は。
「あった所」ですよね?あった所。
6歳から12歳まで過ごした借家は30年ほど前に取り壊され今は残っていません
残間さんもう住んでいた家はないんですけどねこちらに来るとどんな事を思い出しますか?一番思い出すのはこれまでの長い人生の中で一番おいしいご飯だと思ってるのはこの大家さんのうちのおかあさんが作ってくれた夕飯が。
うち父はいつもいなくて母が病気がちで寝込んでて。
で夕方になっても多分…。
この辺が台所だった。
もっと…もっと奥ですけどね。
電気がついてないのを多分大家さんのおかあさんが見てあっと思って裏口から入ってきて「まんま食ったか?」って聞いてくるのね。
でホウレンソウのおひたしとかここは塩引きって言うんですが塩マスの事をね。
塩が噴き出たようなマスを焼いたのとか食べさせてくれたんですよ。
なんかねこの界わいの人たちにすごくうちの一家は助けられたという感じがするので。
この家はやっぱりなんかね自分の中で特別な家ですね。
残間さんは両親と弟の4人家族。
土木技師の父は現場を転々としていたため家にはほとんどいませんでした
母は保険の外交員をして家計を支えていましたが一日に食べるお米が家族全員で茶わん1杯分すらない日もある貧しい生活でした。
残間さん一家を何かと気遣ってくれた大家さんの家には今その息子夫婦が暮らしています
大家の息子鈴木慶雄さん。
残間さんとは小学校の同級生でした
鈴木さんが敷地の中に残っている木造の家に案内してくれました。
ここは残間さんが暮らしていた借家とよく似た間取りだといいます
はいどうぞ。
わあ!
鈴木さんの計らいで中に入れてもらいました
このまま入っていいですよ。
土足で。
なんか土足で入るの悪い気がする。
当時の残間さんの家は6畳と4畳半の二間に小さな台所
残間さんは働きに出ている母に代わって夕食の支度と弟の世話が日課でした
私はよくここに寝てたのよ弟と2人で。
懐かしいよね。
こういうのもよくやった。
障子の。
桜のとかで継ぎはぎするの。
そうだよね。
多分原点がここだという事なんですけどもその原点はどんなとこにあるんでしょうか?やっぱりこの界わいの人たちが長老もいれば若い人もいればいろんな人たちがいっぱいなんか…数として数えるとそんなにいなかったのにいろんな表情を際限もなく見せてくれたっていう感じがしてるんですよね。
小学生にしては。
明るい笑顔を見せていてもその裏には悲しみを抱えていたりつらいものを持っていたりするんじゃないかっていういわゆる陰影ニュアンスみたいなものを人の陰だったり裏側だったりというようなものもなんかこの地域で言わずもがな誰かがそう教えてくれたわけではなくて接する人たちが特に大人たちがそういう事をなんか教えてくれたかなって気がしますよね。
だから一面的じゃないって人は。
笑っていてもその裏側にはいろんな思いを抱えてるんだろうなとか。
特に私にね夕飯をごちそうしてくれた大家さんのあのおばさんも亡くなりましたけどいつもニコニコしてるのね。
午前中…というかお昼。
でも時々ふっと木小屋と称する漬物の樽なんかが置いてある陰で鶏飼ってたその鶏の餌をハコベとかを切りながら泣いてるんですよ。
涙をこうやって拭ってるのね。
「あれ?」って「おばさんなに泣いてんだろう?」って思って。
声もかけられない感じで泣いてるのね。
涙こぼして。
で「ああ私にご飯ごちそうしてくれたり『里江子ちゃん何してるの?』って快活にね昼間聞いてくれる顔とは違う顔があるとか…。
そして自分よりも貧しい同級生から誇りを持って生きる姿勢を教わったといいます
忘れもしない卒業式の日に私は親がようやくね…「月賦」って当時は言ったんですけど十何回払いでようやく買ってもらった洋服を着て卒業式に参列した時にすごく勉強ができてとっても美しい女の子がいたんですね。
その子だけが昨日と同じ洋服だったの。
卒業式の日に。
で私の前にその子は立ったんですよね。
その時に私は私って本当は同じだったのにうちの親が一生懸命なけなしのお金で買ってくれて私は喜び勇んで行ったんだけどかすかに私はその時恥ずかしいと思ったという記憶があって。
その子はりんとしてね今の言葉で言えばほんとにすっとして昨日と同じ服を着てたんですよ。
今名前も全部覚えてるけど。
この子のようにやっぱりならなきゃなと思ったり。
そういう人たちを通して見た人のさまざまな姿ですよね。
それはやっぱり尽きる事のない関心であり興味ですよね。
幼い日々を過ごした原町で残間さんは外見だけでは分からない複雑な人間模様に心を引かれていったのです
その人への好奇心というその思いがそのあと多くの人に会っていかれるじゃないですか。
それにつながっていくという事なんでしょうか?それはそうですよね。
つまり人と出会って人と何か紡ぎ出したり織り成したりしない限り仕事だけではなく人間関係自体が始まらないですよね。
だから働くって事は社会に出る。
社会に出たらいろんな人たちがそこには待ち受けていたり待っていない所にもこちら側から会って頂いたりという事になるわけだから基本的にはやっぱり「人と出会う」っていう事が全ての自分の扉を開く事につながるというのは当然そこから生まれてきてますよね。
短大を卒業した残間さんは多くの出会いを求めて社会に出ていきました。
二十歳で静岡の民放にアナウンサーとして就職。
2年後「出会いの幅を広げたい」と上京し女性週刊誌の記者になりました。
そして30歳を迎えた春「組織を離れて自由に人と出会いたい」と独立します。
企画制作会社を設立してプロデューサーとしてのスタートを切りました
残間さんが最初に事務所を構えたのは東京・原宿。
その後の人生を大きく変える事になった場所です
これです。
あっこの白い…。
そうです。
3階の奥です。
あっ3階の。
ここであの山口百恵さんの自叙伝「蒼い時」が生まれたのです
百恵さんもこの事務所で…ダイニングテーブルなんですよねここ1LDKのマンションですからそのダイニングにあるテーブルで向き合って原稿を書いたりしていた時代です。
東京・青山にある残間さんの今のオフィスで百恵さんとのエピソードを伺う事にしました
残間さんが「蒼い時」をプロデュースする事になったのはある偶然の出会いがきっかけだったといいます
「蒼い時」は実は原町小学校6年2組から始まってると言ってもいいんですが…。
それまで5年半やってた雑誌の記者を辞めようと決めてそのビルを出た玄関で小学校の同級生と会ったんですよ。
ばったり。
私同じクラスで向こう学級委員長でこっちは病気ばっかりして欠席の多い影の薄い女の子で「あの〜残間です」と言っても「は?」みたいな感じだったけどでも名前が珍しいんで覚えててくれてそこからの縁で…。
18年ぶりの同級生との再会を大切にしようと話をするうちにその同級生が谷村新司さんの事務所の副社長だという事が分かります。
そこから谷村さんとの交流が始まりシャンソン歌手の金子由香利さんを紹介されます。
そして残間さんが金子さんのコンサートを手がける中で金子さんの大ファンだという山口百恵さんと知り合う事ができたのです
それから1年後今度は百恵さんから残間さんのもとに運命的な手紙が届きます
私のオフィスの1階の郵便ポストにある日和紙の封筒が一通入っていて裏を見たら自宅の住所で山口百恵と書いてあったんで仰天しましてね。
何だろうと思って。
そしたら引退を表明した途端ねいろんな出版社から当時は「自叙伝」って言い方してましたが出さないかというふうにオファーが四十数社来てますと。
でもいずれもが…まあ自分が忙しいって事をおもんぱかってくれての事だろうと思うけれども「書かなくて結構です。
聞き書きで結構です」とかあるいは「資料を集めてこちらでまとめますので」というのばっかりだと。
いろんなオファーがあったけど一度もやらないできたのは自分で書きたかったからと言ったんです。
私は自分で書きたいという気持ちを聞いたのでだったらば一緒にやろうと。
こうして生まれたのが「蒼い時」。
300万部を超える大ベストセラーになりました
この成功でプロデューサー残間里江子の名は一気に知れ渡ります。
一つ一つ積み上げてきた出会いが残間さんの人生を大きく変えたのです
百恵ちゃんの時はちょっと不意に…いい意味でなんかほんとに「不意の出会い」というような形で。
あれはだから…大げさな言い方かもしれませんけど運命のようなものだったり最大級の幸運だったのかもしれないなと思いますね。
でも何もない時や自分が駄目だという時には人に会うしかないんですよ。
布団かぶって寝てても何も始まらないので。
やっぱり布団を蹴飛ばして外に出て誰でもいいから会って。
それこそ八百屋のおばさんと「こんにちは」と言っただけでも何かが変わるかもしれないんだもの。
残間さんはその後も出会いを加速させ前代未聞のトークイベントをプロデュースします。
財界人から写真家デザイナー評論家更には当時の内閣総理大臣まで集まったパネラーは100人以上。
一人一人に残間さんが声をかけ舞台を整え成功を収めました。
人との出会いを重ねてきた残間さんの集大成とも言えるイベントでした
残間さんにとって「人と会う」という事はこれまで一体残間さんに何をもたらしましたか?全て私の今をもたらしてるんで…。
やっぱり支えですよね。
生きていく。
糧と言ってもいいし支えと言ってもいいけれども。
やっぱり新しい出会いがないと刺激がちょっと違いますでしょ?新しい人ってドキドキするしどんな人かと思うしこの出会いが何にどうつながるか…。
それは著名な人だけではなくてもあした誰かが訪ねてくるという時に月曜日の朝ね「今週はどんな人と会えるんだろう?」とか。
だから「今日のクルーの人もどんな人だろう?」とかそういうのってすごく楽しみ。
何かそこで電光石火のごとく何かが変わるかもしれないとか。
私一応今シングルアゲインで独り身なので「どんな人かしら?恋に落ちたりするかも」とか思うと83歳の引退した学者の先生だったりすると「ちょっと無理かも」と思ったりするんですがでもいつも「今週はどんな人とどんなふうに会えるか」って月曜の朝はやっぱり楽しみですね。
嫌な事は日曜の夜中の23時59分59秒で捨てようって決めてて。
0時からはあしたからの1週間に向かおうっていうふうに。
年齢とともに「もう駄目だ」とか言うのは簡単だけどそう思ってしまうと前に足が出ていかないから。
まだ私の知らない私がいる。
それを誰かが発掘してくれるかも。
気付かせてくれて自分を変化させてくれる何かこう粉のようなものを散らしてくれるかもしれないというような新しい人との出会いにはいつもそういう希望みたいなものは持たなかった事はないですね。
プロデューサーとして確固たる地位を築いた残間さんですが今年65歳。
引退を考える年齢となり今転機を迎えています
貪欲に人と会い続けてきたこれまでの歩みを大きく転換。
去年出版した本には「閉じる幸せ」というタイトルを付けました
これまでいろんな人と会って出会いを広げてきた残間さんが今「閉じる」という事をおっしゃっていると。
ちょっと矛盾するんじゃないかと思うんですけどもね。
私の人との出会いは一巡したなと思ったんですよ。
いろんな人がめったに会えない人めったに遭遇しないドラマに会ったがゆえに私がある種の輪が完結したように思った時にそれはそれで分かったけどじゃあ私自身の今これからはどうなるんだろうっていうと自分が会いたい。
会ってどんな人か知りたいから「知った事を人に伝えたい」というとこに確かに変わってきてると思いますね。
残間さんにとって「閉じる」とは本当にやりたい事を絞り込む事。
それは人と人とをつないで互いの事を伝え合う場をつくる事です。
この春には自ら企画し司会を務めるテレビ番組もスタートさせ10代20代の若者と団塊以上の世代とを結び付ける橋渡し役をしようと考えています
「世代を超えて人と人とを結びたい」
その思いは残間さんが少女時代を過ごした仙台市原町の暮らしの記憶とつながっていました
あのころだって老若男女界わいにはみんないろんな形で存在していて血はつながってなくてもなんか町内で子供たちを育ててたって感じが…。
今みんな地域で育てましょうとか子供は国のみんなのものですとか宝ですとかって言葉では聞こえてきますけれどもあのころは本当にそうでしたよね。
いたずらすると本気で怒ったし大人たちは人のうちの子でも。
やっぱりそういうようなものというのはそんなに情緒的に今からいくとは思いませんよ。
でも話し合ったり理解したり一つのテーマについてそういう年齢のたかでね若いとか年を取ってるって事で区差別しなくてもいいかなって。
人口も減ってるんだから逆にちょっとみんなでいろんな意見交換してみたらどうかしら。
そこから何か新しい文化や新しい仕事も生まれるかもしれないとちょっと思いかけているのは多分…なんかここに来てねほんとにそう思ったんですよ。
この場所に来て。
「そうだあのころいろんなおじいちゃんや全然名前も知らないおばあちゃんやおじいちゃんがいろんな事を差別する事もなく『最近来た人だから関係ないや』という顔もせずに声をかけてくれた」というのを思い出して「ああそうか。
今やってる事とつながってるのかな」って逆にここに来て思いましたね。
今過去とか昭和はノスタルジーで楽しむ人はいてもあの中でいろんな英知や自然との向き合い方とかいろんなものをいっぱい教わってきたはずなんですよね。
でもそれが一気に国際化っていう流れの中で忘れ去られてるというかなんかもう昔の事として片付けられてる感じがして。
戦争以後どんなふうに生きてきたかというような事は今語っていった方がいいんじゃないかなと私は思ってるんですね。
そうするとすぐ戦争の事ばかりになるけど戦争だけじゃなくていろんな波を自分たちでつくったりくぐり抜けたりしてきた昭和の知恵みたいなものもノスタルジーを超えてやっぱり一つの英知としてね若い人に伝えるべきものあるような気がしてるのでそれはちょっとトライしてみたいですね。
2015/05/04(月) 06:30〜06:53
NHK総合1・神戸
インタビュー ここから「プロデューサー・残間里江子」[字]
プロデューサーの残間里江子さん。最も大切にしていることは『人との出会い』。その原点は、病弱で、しかも極貧の中で暮らしていた故郷・仙台での幼き日々にありました。
詳細情報
番組内容
プロデューサーの残間里江子さん。1980年、山口百恵著「蒼い時」のプロデュースで脚光を浴び、その後、数々の大型イベントのプロデューサーとして活躍。時代の先頭を走り続けています。その残間さんが最も大切にしていることは『人との出会い』。その原点は、病弱で、しかも極貧の中で暮らしていた故郷・仙台での幼き日々にありました。その時、残間さんに何があったのか? 残間さんの原点に、そして、これからに迫ります。
出演者
【出演】メディアプロデューサー…残間里江子,【きき手】内美登志
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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