ハートネットTV シリーズ 戦後70年 第1回「障害者はどう生きてきたか」 2015.05.05


皆さ〜ん明けましておめでとうございます。
いきなりだけど今年は何の年かご存じ?よいしょ!そうそうねこ年。
…ではないわよ〜。
今年はあの大きな戦争が終わってから70年。
戦後70年なの。
という訳でやって来たのがここ。
NHKアーカイブスよ。
これまでにNHKが放送した番組なんと70万本以上も保管されているの。
中でも福祉番組の歴史は長いのよ。
これはテレビ初の福祉番組「テレビろう学校」よ。
耳が聞こえない子どもたちのための番組。
みんな喜んでくれたわね〜。
あれから半世紀。
本当いろんな番組があったのよ。
日本は今難しい問題をたくさん抱えているわ。
そんな時こそちょっと歴史を振り返ってみるのはどうかしら。
このたくさんの映像の中にはきっといろんなヒントがあるはずよ。
過去の歴史をひもとき未来へのヒントを探る「シリーズ戦後70年」。
第1回は「障害者の福祉」です。
その始まりは戦争で障害を負った人たちの訴えに遡ります。
教育や仕事など当たり前の生活を手に入れるために根気強く声を上げ続けた人々。
去年日本政府は障害者へのあらゆる差別をなくす事を目指す障害者権利条約を批准しました。
新たなスタート地点に立った日本の障害者たち。
その歩みを振り返ります。
明けまして…。
(2人)おめでとうございます。
新年最初の「ハートネットTV」です。
今年は戦後70年という事で1年を通して福祉の戦後を振り返るシリーズをお送りしてまいります。
1月は今日と明日の2回シリーズです。
第1回は「障害者の戦後」についてお伝えしていきます。
スタジオには障害者運動をリードしてこられた日本障害者協議会代表の藤井克徳さんにお越し頂きました。
どうぞよろしくお願いします。
(サヘル)よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
藤井さんは視覚に障害があります。
そして福祉の戦後70年に詳しいふくにゃんも来てるんですけどふくにゃん!はい。
あら。
あれ?ちょっとこの子もしかして今寝てますね〜。
正月疲れですかね。
(サヘル)お餅食べたのかな?いっぱい。
さて去年は日本が国連の障害者権利条約を批准した年でした。
この条約はといいますと障害によるあらゆる差別を禁止しようという画期的なものだったんですがそう考えますと藤井さん今ね戦後70年の日本にとっては一つの大きな節目ではないかと思うんですが。
そうですね。
この権利条約は私たち障害分野からしますと過去を振り返りまた近未来を見て一番大きな出来事だと思うんですね。
戦後70年振り返りますといろんな面で発展をしてきた。
隔世の感があります。
しかし一方で今の現状を見ますと特に一般市民との格差これも非常に大きいんですね。
つまり発展の足跡と格差の増大が同居してるのが現状で権利条約は特にこの格差の是正にどう効力を発揮するかとても期待が大きいですね。
さあでは70年の道のりはどんなものだったんでしょうか。
こういった年表をもとに見ていきます。
それぞれの時代を象徴するキーワードを見ていきます。
(サヘル)どれも心に突き刺さるような…このような思いをされていたっていう事ですよね。
さあまずは最初のキーワードです。
「人間扱いされなくて」。
戦時中から終戦直後にかけて障害者たちはどんな状況に置かれていたんでしょうか。
これは障害のある子どもたちの戦前からの歴史を取り上げた番組です。
今から50年前昭和7年の6月1日に我が国で初めての肢体不自由児のための公立学校が東京の麻布に開校しました
番組では戦争中の養護学校の子どもたちの様子を紹介しています。
「自分たちもお国の役に立ちたい」と障害のある体で軍事教練に臨む子どもたち。
戦闘に参加できない障害者は肩身の狭い思いをしていました。
この学校の卒業生は当時の事をこう語っています。
一方で戦争は数多くの障害者を生み出しました。
戦闘で障害を負った傷痍軍人たち。
戦後その存在が日本の福祉を大きく動かす事になります。
傷痍軍人たちは戦後の物不足の中で厳しい療養生活を強いられました。
傷口を覆うガーゼも洗って使い回したといいます。
生活苦から街頭や電車の中で募金を訴える人も数多くいました。
傷痍軍人たちは全国で患者自治会を作り待遇の改善を訴えます。
1948年結核患者の団体と共に日本患者同盟を結成。
運動は広がりを見せました。
10月25日臨時国会の幕開き
こうした流れに押され国は身体障害者福祉法の制定に動きます。
1949年日本で初めての障害者福祉の法律が誕生しました。
戦争中の障害者の方々っていうのは本当に厳しい状況下にあった訳ですよね。
戦時中今ありましたように穀潰しあるいは非国民という事で人間扱いをされてなかった訳ですね。
障害者にとっては誰よりも戦争の終結を平和の到来を待ち焦がれていた。
こういうふうに言っていいと思うんですね。
穀潰しっていう言葉はどういう意味でしょうか?穀潰しっていうのは食べるだけで役に立たないという。
「穀」っていうのは穀物の穀って書いてそういうふうな意味なんですね。
ちょっと失礼。
ふくにゃん。
いきなりだけどここでクイズを出しちゃうわよ。
今VTRで見た身体障害者福祉法っていう法律。
障害者の福祉はここから始まったっていわれるんだけど法律が出来る時にすごく影響を与えたとある有名な外国の方がいらっしゃるの。
サヘルさんどなたかご存じ?あら。
さあどうかしら?さあ間もなく時間よ。
(サヘル)どうしよう。
はいどうぞ!えっと…じゃあ1番のナイチンゲール。
ブッブ〜!シャ〜!藤井さんはお分かりよね?これはヘレン・ケラーですね。
3番ですね。
3番のヘレン・ケラーです。
さすが藤井さん正解。
ヘレン・ケラーさんはね1948年に日本の目の見えない人たちの招きで来日しているの。
その時全国を講演して回ったり国の偉い人たちに福祉の充実を訴えたりしたそうよ。
それが法律を作ろうという動きに大きく影響したんですって。
(サヘル)すごい。
皆さんを動かしたのがヘレン・ケラーさんっていうのも知らなかったです。
しかし戦後はヘレン・ケラーさんを呼んだ視覚障害の方たちだったりそれから傷痍軍人の方たちの運動とか障害のある当事者の皆さんが声を上げた事がスタートとなっているようなそんな気がするんですよね。
やはり障害当事者がまとまろうという事で交流しよう力をつけようというそういう点ではとても大きな意味があったし今ある大きな障害種別の団体…全部戦後直後に誕生してますね。
ただ一方でその後も障害のある人たちの暮らしは厳しい状況が続いていました。
中でも遅れていたのが特に子どもたちの教育の問題なんですね。
戦後9年間の義務教育が実施されるんですが障害のある子どもたちの多くは就学免除や就学猶予といった形で学校へ通えない事が多かったそうなんです。
当時学校へ通えなかったという女性を6年前の番組で取材しています。
札幌市に住む伊藤フサ子さん。
生後間もなくポリオに感染し手や足に障害が残りました。
父親は早くに亡くなり母親一人でフサ子さんたち兄弟5人を育てたといいます。
母親に送り迎えをする余裕はなく兄弟の中でただ一人学校に通う事ができませんでした。
取材した時フサ子さんは夜間中学に通い勉強していました。
チョンチョンって書いて「人」。
覚えたばかりの文字を書きこれまでの思いを作文につづっていました。
「どうしても学校に行きたくて『何で私だけ学校に行けないの』と母さんを責めた事があった。
母さんはしばらく黙っていたが『すまない…』と小さな声でつぶやいた」。
「私はこれ以上母さんに学校の話をしてはいけないと感じて言うのをやめた」。
最初就学免除っていう言葉を聞いた時プラスな事なのかと。
免除されるから…。
「行かなくていいよ」っていうね。
サポートなのかと思ってたんですがそうではなくて本当は行きたいんだけれどもなかなかそういう環境が整っていないからこそ受け入れてもらえていない。
今では信じられませんけども入学選考という言葉があったんですね。
(サヘル)入学選考?つまり学校が子どもを選ぶという事だったんですね。
(サヘル)子どもが学校を選ぶのではなく学校が子どもを選ぶ。
私がいた東京都立小平養護学校では職員会議の多数決で子どもを選ぶというふうになっていったんですね。
子どもたちを集めていろんなデータをとりましてそのデータを基にして職員会議で「適」か「否」で挙手をしてほしいという議長さんの促しがあってそして「適」か「否」で子どもを選んでいった。
という事は重い人は落ちてしまうという事ですよね。
私は当時若かったんですが猛然と反発しましてね。
教育っていうのは権利な訳ですから権利に重い軽いによって変わるっておかしい訳ですからやはり教育権っていうのは平等にあるっていう考え方から私は懸命にそういう主張をした訳ですね。
でもそういう事を言うのって勇気がいったんじゃないですか?70人からいる職員会議ですから足は震えて口も震えて…。
今考えてみればね。
でも必死に言った事は鮮明に覚えてます。
続いての時代のキーワードはこちらです。
「私も働きたい!」。
1960年代に高度経済成長が始まりますと労働力が求められる中で障害者の仕事の問題が大きなテーマになりました。
障害ある方にとって働きやすい時代にはなったんですか?一方で身体障害者雇用促進法という法律が1960年に生まれましてただこれはその名のとおり身体障害者だけであって…まだまだ働く問題は不十分でしたね。
そういう状況の中で出てきたのが障害のある人たちが自分たちのペースで働ける場所を作ろうという共同作業所作りの運動です。
おはようございます。
(一同)おはようございます。
障害のある人およそ60人が通っています。
弁当作りや機械部品の組み立てなどの仕事を請け負い一人月1万円ほどの収入を得ています。
(取材者)お金がいっぱいもらえるように。
へえ〜!ここは今からおよそ半世紀前日本で初めて出来た共同作業所です。
ゆたか作業所が産声を上げたのは1968年。
卒業しても就職できない子どもたちの居場所を作りたいと親や中学校の教師が働きかけ工場の一角で楽器の製造を請け負ったのが始まりでした。
作業所が出来た時から働いている…
(取材者)みんなで一つの机に座って。
一緒に働くのがよかったって事ですか。
それまで行き場のない我が子を自宅に残しておくしかなかった親たちにとっても願ってもない事でした。
ところが1年後大きな壁にぶつかります。
発注元の企業が倒産し工場を追い出されたのです。
当時発行していた機関紙にはこの時の事が克明につづられています。
「2月1日倒産」。
「これからどうなるの。
月曜日からどうしたらいいのという質問が帰り支度中の子どもたちから相次いで発せられる」。
更に追い打ちをかけたのは作業所を運営するスタッフの間に意見の対立が生まれた事です。
あるスタッフが「障害者のペースに合わせるのではなく今後はもっと営利を追求するべきだ」と主張しました。
初代の所長を務めた鈴木峯保さん。
その意見に強い抵抗を感じたといいます。
激しい議論の末利益を求めたスタッフは退職。
残った人たちは一般企業から追い出された障害者でも働ける職場を目指そうと確認しました。
その後初代所長の鈴木さんや母親たちは行政や知人などを訪ねて回り支援を呼びかけました。
しかしなかなか協力は得られなかったといいます。
そんな危機を救ったのは地元の中小企業の経営者たちでした。
戦後の不況で苦労した経営者たちが仕事がないなら自分たちで作るという心意気に共感したのです。
鈴木さんたちは1口5万円の出資を募り280万円を確保。
初めて自分たちだけの作業場を手に入れました。
親会社の倒産から僅か1か月。
こうして国や自治体ではなく地域の力で運営する日本初の共同作業所がスタートを切ったのです。
この日ゆたか作業所に通う人たちが会議を開いていました。
今年の売り上げがよかったため所長にボーナスを要求しようというのです。
(一同)オ〜!こうしたゆたか作業所の取り組みは全国各地に広がり6,000か所を超えました。
その後国の制度の中に位置づけられ今に至っています。
(サヘル)働いてらっしゃる皆さんの表情が本当に生き生きとしていて動きたいんだなとやりたいんだなと。
障害者に仕事をちゃんと合わせようと。
それまでは仕事に障害者を合わせようっていうのが多かったんですがまさに今言われたように主人公は誰かっていう事をこの共同作業所の実践はきちんと確かめていった。
もう一つはそれまでは地域を離れた遠くの収容施設入所施設っていう所に寝泊まりしてたのが多かったんですがこの共同作業所の実践の中で地域で働く場を作り暮らしを築く事の大事さこれが実証された訳でその後の障害者の支援活動にもこれは少なからず影響を与えた。
こんなふうな意味があると思うんですね。
お話し中失礼。
障害者が主人公っていえばある大事な方たちがいるのよ。
どなたですか?ふくにゃん教えて。
脳性まひの人たちの団体…障害のある人たちを仲間外れにするような社会に対して随分激しい運動をしたのよ。
1970年代だったかしら。
車椅子でバスに乗るのを断られた時にはみんなで中に乗り込んで抗議したりしたの。
(サヘル)自ら動いた…声を出して。
…だっていわれてるわ。
(サヘル)ふくにゃんありがとう。
続いては最後のキーワードです。
こちらです。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」。
1980年代以降の動きを見ていきます。
世界各地の障害者の様子を取材したミニ番組です。
国連が定めた1981年の国際障害者年をPRするためにNHKが制作。
毎日放送しました。
障害がある人もない人も共に暮らせる社会を作ろうと国連が呼びかけた世界的なキャンペーンでした。
ところがこれだけでは各国の障害者政策は十分には進みませんでした。
そこで生まれてきたのが強い法的な力のある障害者権利条約を作ろうという動きです。
世界の障害者たちはこの時「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と訴えました。
そこで国連は条約作りの際当事者たちにも加わってもらう事を決めます。
そして2006年国連総会で障害者権利条約が採択されたのです。
日本がこの条約を批准したのは去年1月。
世界で141番目の事でした。
この障害者権利条約特に大切重要なのはどういったところでしょうか?「私たち抜きに私たちのことを決めないで」っていう自己決定。
それから障害をもたない人との特に暮らしぶりの中での平等性ですね。
聞けばなるほどって思うんだけどもそれを体系だってしかも世界の共通ルールとして決めたところに大きな意味があると思います。
更にこれから日本が障害者権利条約に向き合っていく中でどんな課題があるんでしょうか?私は戦後70年を語る時どうしても忘れられないのがあの東日本大震災ですね。
お分かりのように…すなわち…この権利条約を今後根を下ろしていく中にやはり2倍の不利益一般市民との格差をふだんから埋めていこうというのが条約の趣旨でありますのでね。
権利条約の時代にふさわしい実践そして運動を新しく作っていく必要がある。
また私たちも運動作りを問われてる。
こう言っていいかと思います。
藤井さんはどんなビジョンというか未来を描いてますか?私は権利条約にその未来のほとんどが含まれてますので私たちはこれを北極星に例えていきたい。
これを高く掲げてこれから進んでいきたい。
こう思ってます。
今日は皆さんどうもありがとうございました。
(サヘル藤井)ありがとうございました。
あっふくにゃん。
ふくにゃんがいます。
2015/05/05(火) 13:05〜13:35
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV シリーズ 戦後70年 第1回「障害者はどう生きてきたか」[解][字][再]

戦後70年の節目に、日本の「福祉」の歴史を振り返り未来へのヒントを探るシリーズ▽第1回は、差別や偏見と闘い権利獲得を目指した「障害者」の歴史▽女優サヘル・ローズ

詳細情報
番組内容
戦後70年の節目に日本の「福祉」の歴史を振り返り未来へのヒントを探るシリーズ▽第1回は「障害者」の戦後。戦時中「非国民」「穀潰し」と言われ差別や偏見にさらされた障害者たち。“当時者”の地道な訴えが、教育や働く場など障害者の権利を少しずつ切り拓いてきた。人として当たり前の権利を獲得するための苦闘の歴史を、日本の障害者運動をけん引してきた藤井克徳さんとひもとく▽女優サヘル・ローズ/謎のネコ・ふくにゃん
出演者
【出演】日本障害者協議会常務理事…藤井克徳,サヘル・ローズ,【司会】山田賢治

ジャンル :
福祉 – 社会福祉
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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