古代中国 英雄伝説「司馬遷と武帝」 2015.05.06


ああ。
おる。
俺は死なん。
「大河ドラマ花燃ゆ」。
第2ステージにご期待下さい!北京から1,700キロ。
敦煌の西に築かれた漢の時代の長城です。
紀元前2世紀。
漢王朝ははるか中央アジアにまでその勢力を拡大していました。
この時王朝に君臨していたのが第七代皇帝武帝です。
積極的な対外戦争を重ね漢をかつてない巨大帝国に成長させたのです。
武帝の権力が頂点にあった時その行いをただ一人敢然と批判する人物が現れます。
歴史家司馬遷です。
司馬遷はこう語ります。
「私だけは誠の意見を開陳したい」。
「他の人々は妻子を守ろうとして保身を図っているだけだ」。
この行為をとがめられ司馬遷は死刑に次いで重いとされる宮刑を受けます。
そして屈辱の中膨大な量の歴史書を書き上げました。
あの「史記」です。
武帝という強大な権力者と対峙する中で生み出された「史記」。
その誕生の物語をたどります。
今から4,000年以上前に生まれた中国文明。
その誕生以来の歴史を記したのが司馬遷の「史記」です。
その数130巻。
古代の王朝の興亡が克明にそして系統的に記録されている事から中国最古の通史とされています。
「史記」が誕生したのは今からおよそ2,000年前の漢王朝の最盛期でした。
陝西省西安。
かつて長安と呼ばれた漢の都です。
都に君臨した武帝。
その名のとおり武力で周辺地域を平らげ広大な帝国を築き上げようとしました。
しかしその野望の前に大きな敵が立ちはだかっていました。
北方の遊牧民族匈奴です。
漢の時代その勢力はモンゴル高原を中心に黄河の北にまで及んでいました。
匈奴との戦いに力を傾ける漢。
そのさなかに起こったある事件をきっかけに司馬遷は「史記」執筆に打ち込む事になります。
事件が起こったのは紀元前99年。
都を離れ西域を目指す一人の将軍の姿があった。
その名は李陵。
武帝の命で匈奴討伐に向かうのである。
ある時3万という匈奴の大軍に遭遇する。
李陵が率いたのは僅か5,000だった。
大軍を相手に一歩も引く事なく奮闘する李陵
しかし圧倒的な兵力差の前にやがて刀折れ矢が尽きる
李陵は生きて匈奴の捕虜となった
李陵の降伏を知った武帝は烈火のごとく怒る。
家臣たちも口々に李陵を非難し始めた
その中にただ一人李陵を弁護しようとした男がいた。
司馬遷だった
司馬遷は武帝のそばに仕える太史公。
過去の出来事を記録する役目でした。
李陵の事件について司馬遷は友人に宛てた手紙にこう記しています。
「援軍が来ず李陵は敗北した」。
その援軍を指揮した将軍は武帝が寵愛した側室の兄である事が分かっています。
李陵の弁護はその将軍を非難する事につながるため家臣たちは皆口をつぐんだと言われています。
しかし司馬遷はただ一人李陵を弁護したのです。
「李陵は奮戦し匈奴を震え上がらせた。
生きて降伏したのはいつか再び漢のために尽くすためだ」。
しかしその言葉が武帝の逆鱗に触れます。
司馬遷に与えられたのは宮刑。
強制的に去勢の手術を受けさせる司馬遷にとって屈辱的な刑罰でした。
光のささない暗い牢獄で刑に服す事3年。
牢を出た司馬遷が友人に宛てた手紙が残されています。
「人の死は時に泰山より重くまた時に鳥の毛よりも軽い。
その差はどのような目的のために死ぬかによる。
宮刑という辱めを受けた私がどうして死を選ばない理由があろう。
そうしないのは歴史を書き残せないまま死ぬ事を無念に思うからである」。
その後司馬遷は「史記」の執筆に生涯をささげる事になるのです。
軍備の増強に力を注ぎ続ける漢王朝。
武帝の宿敵匈奴を漢の人々は「夷狄」と呼び野蛮で未開と見なしていました。
しかしその勇猛さは大きな脅威でした。
武帝の時代を遡る事およそ60年。
漢の創始者劉邦は強大な匈奴の騎馬軍団の前に大敗を喫します。
以来歴代の漢の皇帝は匈奴を兄自らを弟とし毎年貢ぎ物を贈り続けてきました。
この屈辱的な関係に終止符を打つのが武帝の悲願でした。
甘粛省の西部にある山丹軍馬場。
2,100年前武帝の時代から続く軍馬繁殖の拠点です。
武帝は強力な騎馬軍団を作るため優秀な馬の繁殖に力を注ぎました。
「史記」にはこう記されています。
「庶民の街に馬あり。
あぜ道の間に群れを成す」。
軍備を充実させた武帝は匈奴に何度も大規模な戦争を仕掛けついに勝利します。
そして匈奴を北方へと追いやる事に成功するのです。
匈奴の討伐を祝って武帝が作らせた石像が残されています。
踏みつけられているのは匈奴の男。
武帝は野蛮な夷狄と見なした匈奴への屈辱の思いを晴らしたのです。
その異民族匈奴に司馬遷も目を向け「史記」に書き残しています。
「匈奴列伝」です。
司馬遷は漢の人々が匈奴への偏見と共に語った言葉を記しています。
「兄が死ねば弟はその妻をめとる。
礼儀も衣冠束帯の礼装もない」。
その一方で匈奴の風俗習慣から法制度に至るまで克明に記しています。
「法制は簡易で実行しやすく君臣の間も気軽で一国の政治はまるで一身のようだ」。
司馬遷は漢の人々の偏見も匈奴の実像もありのままに記録しようとしています。
やっぱり中国とは違う遊牧人の国家観というのがありますよね。
中国はほんとに文書行政あり官僚が統治するような国だけども匈奴の世界はもっと自由な世界だという描き方をしてるので。
夷狄というのは単に後れてるというよりは中国と違う別世界があるとかなり克明に匈奴の様子を描いてるところが面白いですね。
中国・内モンゴル自治区で匈奴の王単于の墓が発掘されています。
単于の金の王冠です。
額の部分に刻まれているのはモンゴルの草原。
そこに住む馬や羊。
そしてそれを狙うオオカミ。
草原を見下ろす鷹の頭部は金にトルコ石をはめ込んでいます。
匈奴が高度な象眼技術を持っていた事を示しています。
今その実像が少しずつ明らかになろうとしている匈奴。
司馬遷は2,000年も前に漢王朝の匈奴に対する姿勢を批判しこう記しています。
「匈奴の事を語る人々はその場しのぎの策しか持たず皇帝にへつらってばかりいる。
情勢を知ろうとしない。
成果をあげようとするなら優れた将軍や大臣を登用すべきだ」。
そこには独自の文化を築いた匈奴への冷静なまなざしがありました。
絶大な権力を誇った武帝の時代に歴史を記録しようとした司馬遷。
武帝の事はどう記しているのでしょうか。
「史記」の中に「河渠書」と呼ばれる巻があります。
(鶴間)ここですね「河渠書」というのは。
「河渠書」とは歴代の王たちが行った治水工事の記録です。
黄河の中流域にある河南省濮陽。
漢の時代は「弧子」と呼ばれ黄河の氾濫に度々悩まされていました。
小麦畑に残る小高い丘。
かつて武帝はここに離宮を建て治水工事を指揮したといわれています。
武帝の治水の業績を書き記す司馬遷。
ところがそこにある一文を加えています。
「河弧子に決してより後二十余歳歳よりてもってしばしば実らず」。
武帝が20年以上治水工事を行わなかったため実りのない年が何年もあったというのです。
ストレートに皇帝が駄目だなんて言えませんよね。
でもいろんな事実を書く中でやっぱり政策は失敗したりするわけですね。
やるべき事をやらなかったという事はたくさんあるわけですね。
それをある種客観的に書くそれが批判になるんですね。
漢王朝の拡大を目指し続ける武帝。
匈奴ばかりでなくはるか中央アジアまで更に勢力を伸ばそうとします。
戦争は武帝の死まで続けられ国は疲弊していきました。
歴史を記録する事に生涯をささげた司馬遷。
司馬遷がいつどのような最期を迎えたのかはよく分かっていません。
しかし死後400年近くたった頃陝西省に祠がつくられ司馬遷は人々の敬愛を集めるようになりました。
その一角に司馬遷の墓があります。
墓はモンゴルのゲルのような形をしています。
13世紀元の皇帝フビライが修復させたものです。
司馬遷の「史記」はモンゴル人が打ち立てた異民族王朝元でも高く評価されていました。
「史記」は平安時代の日本にも伝わっていました。
国宝に指定されている「史記」の写本。
平安貴族から戦国大名毛利家に渡り代々受け継がれてきました。
日本でも読み継がれた「史記」。
昭和の初め日中戦争のさなか。
激しい戦いに身をさらした一人の若者が司馬遷に深い関心を抱きました。
後に昭和を代表する作家となる武田泰淳です。
武田は日本中が戦争一色に染まっていた昭和18年代表作「司馬遷」を世に問います。
2015/05/06(水) 04:40〜05:00
NHK総合1・神戸
古代中国 英雄伝説「司馬遷と武帝」[字]

中国で初めての通史「史記」を記した歴史家・司馬遷。時の皇帝・武帝から受けた屈辱に耐え忍びながら、司馬遷が後世に伝えようとした歴史の真実とはいったい何なのかを探る

詳細情報
番組内容
中国史上初めてとなる通史「史記」を完成させた歴史家・司馬遷。時の皇帝・武帝から酷刑を受けるが、屈辱を耐え忍びながら「史記」を書いた。彼が後世に伝えようとした歴史の真実とは何か?近年、中国各地からは、史記が完成する以前に記された竹簡が続々と出土。これらは、史記の資料として利用されたと考えられている。その中から、司馬遷が何を史記に記し、何を記さなかったかを追跡し、司馬遷独特の歴史哲学を読み取っていく
出演者
【語り】兼清麻美,【朗読】長谷川勝彦

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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