おいしいジャーベットでした
次回は女性必見の「おなかスッキリスムージー」を御紹介します
ブッダの遺言の書とも言える「涅槃経」。
旅の最後死を悟ったブッダは「疲れた」と言って体を横たえいよいよ涅槃の時を待ちます。
そして不安がる弟子たちに「形だけの供養はするな私の教えを実践する事が一番の供養になる」と言い残します。
その教えはあるべき生き方と死に方を示してくれるのです。
第4回は2,500年の時を超え今も生き続けるブッダの遺言を読み解きます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さて今月はブッダの最期の言葉を記した「涅槃経」。
いかがですかここまで。
そうですね何かこう自分があまりに仏教の事も知らないしブッダの事も知らなくて知らないのに漠然と入ってきちゃって間違ってる事結構あるじゃないですか。
はい。
それが正されていく感じ。
例えばブッダという人が一人間であるっていう。
すごく人間離れした存在ではない一人間であるみたいな事が割とシンプルに心を打ったりとか。
今回はいよいよブッダが涅槃に入ります。
その後弟子たちは仏教はどうなるんでしょうか。
今回の指南役ご紹介いたします。
(一同)よろしくお願いいたします。
今回ブッダは涅槃に入ります。
その涅槃の時の様子とそれからその涅槃ブッダの死を受け止めた弟子たちの様子についてお話をしていきます。
そしてそのブッダが言い残した言葉によって仏教という一つのこの宗教システムがどのようにその後長く維持されていったのかというその秘密ですねそういうお話もしたいと思っております。
さあではいよいよブッダの死涅槃直前の様子についてご覧下さい。
ブッダは大勢の弟子たちと共に涅槃の場所となるクシナーラーに向かいます。
そして到着するとこう言います。
そして2本の沙羅の木の間沙羅双樹の下に静かに横たわり最期の時を待つ事になります。
沙羅双樹が美しい花を咲かせたのはこの時でした。
天空から花やお香が降り注ぎ神々が美しい音楽を奏でました。
するとブッダは弟子たちにこう語ります。
何かこう遺言といいますか最期の言葉っぽいですね。
そうですね。
でも花や音楽は要らないって。
花や音楽というのは天が神様がね空からブッダの死を供養するために降らせたり音楽を奏でたりするわけですけれどもそれが本当の私のための供養にはなってないというわけですね。
本当に私を供養するという事は私が一生かけて説き残した教えに従ってお前たちがこれからもずっと修行生活を送っていく事であるとこう言うわけです。
ですからつまり人が死ぬという事は…その評価がすばらしい評価だという事になるのが正しい供養だというそういう意味ですね。
ブッダの一生を振り返りますとやはり自分の心の苦しみを感じ取ったところから修行生活が始まりそして悟りを開いてその悟りの道を今度は自分一人のものにせずにみんなに知ってもらいたいと思って布教活動に入りますね。
一生をかけて何をやったかというとそれは人を救うために助けるために自分の人生をかけたわけですから…それを引き継いでもっと追求せよと。
そうです。
これは私たち自身の人生にも関わる事なので私たちは生きてますけどもいつか死にますわね。
死んだ時にどのように自分は供養してもらいたいかと考える時にね例えば立派なお墓を建ててもらうのかあるいは散骨をするのかという事を皆さんおっしゃいますけれども一番大事なのは供養してもらえるような人生をつくってきたかという事なんです。
ですから実は毎日暮らしてる間私たちは死ぬという事を忘れて暮らしてますけれども本当はこの忘れてる毎日毎日が実は死に向かっての人生の積み重ねになってるという事を自覚しないと。
死というのは生きてきた人生全体の総決算の事を死と呼ぶわけですから他の人の死を我々が受け止める時にもそういう立場で見るべきだという事ですね。
その「総決算」という表現がすごく響くのは死んでしまうとそこからその人自身が足す事はもうできないからその瞬間に完成といえば完成ですもんね。
ブッダの教えも完成ですもんねある意味じゃ。
そうです。
そうするとそれがいいものであったというかどうかはその教えをずっと継いでてくれればいい死ですもんねそれは。
そういう意味では今のお葬式を考える場合にも単に一つのセレモニーとしてお葬式を捉えるのではなくてその亡くなった方の人生の総決算としてそれを受け止めるのが本当のお葬式ですから。
実を言うとお葬式の本質はねそのセレモニーそのものよりもその前のお通夜にあると僕は思うんです。
お通夜というのは知人がみんな集まりますね。
集まって亡くなった故人の事をいろいろ話し合うんですよ。
そうするとみんなが頭の中で断片的に持っていたその人の人生のいろんなやってきた事柄がそこで全部集合して一つの人に固まる集まって出来上がってくる。
何か本当に思いもかけないこんな交友関係がこの人にはあったのかあっこんな一面もあったのかというのがそこでこう集まってきて何かさみしいんだけれどももひとつこう豊かな気持ちになるというのはありますね本当に。
それはその人の人生がそこでもう一度よみがえってくるわけですね。
そしてその人がやった事言った事が後々の人の心にそのまま残っていくそれがこのブッダが言っている本当の供養という事になりますよね。
さていよいよブッダは涅槃に入ります。
沙羅双樹の下で横たわるブッダにいよいよ涅槃の時が近づいてきました。
死の直前ブッダは嘆き悲しむアーナンダと弟子たちに向かってこう語りかけます。
そして更にこう教えを説きます。
僧侶の組織であるサンガの修行者たちに上下関係をはっきりさせなさいと命じたのです。
「上下関係」といっても能力主義ではなく年功序列を意味していました。
サンガ内で能力主義を取り入れると権力闘争が起こってしまいます。
年功序列はこの権力闘争を避けるための教えなのです。
更にブッダはこう続けます。
サンガのルールである「律」をその時代の変化の中で廃止してもかまわないと言うのです。
そしてブッダはこう言います。
この言葉を最期にブッダは涅槃に入ったのです。
まず最初にこの言葉。
これはこのとおりで私は今涅槃に入って消滅するけれどもしかしだからといってもう自分たちのリーダーいなくなってしまったといって悲しむ必要はないと。
ちゃんと残すものは残してあります。
それは私の説いた教えこれは悟りに向かうための道という事ですね。
一方もう一つは私の定めた法律。
これは律ですね。
つまりサンガの規律ですね。
それをこれからの自分の先生師としてあがめていけ守っていけという事です。
よくできてると思うのは「ここで確認しておきますよ。
皆が僕の事尊敬してくれたかもしれませんけどあくまで僕じゃないですから」っていう。
「僕が見つけた真理であり作ったそのシステムの事をみんなは敬うべきなんです」というこの確認は見事ですね。
しかも非常に一貫した形でね私が偉いんじゃないんだ。
私が見つけた真理こそがお前たちの本当の土台になるもので導きのもとだという事をはっきり言うんですね。
そして次にこちらです。
恐らくブッダが生きておられる頃にはお弟子さんたちはみんなお互いに「何々さん」という形で呼んでいてどちらが上でどちらが下という事がなかったと思うんです。
しかしブッダがいなくなったあとにはそれをきちんとしておかないと…先輩の比丘は新参の比丘を名前姓友ですからこれで普通に呼ぶわけです。
それに対して新参の比丘は先輩の比丘を尊敬の気持ちの籠もった言葉で呼ぶ。
この大事なのは「先輩」「新参」というところが大事でこれは僧侶になったその日時の早いか遅いかだけなんです。
落語界も一緒です。
落語界も年齢関係ないです。
全然僕よりも10も年上の弟弟子とか入ってきますけどその人をつい「さん」づけで呼ぶと怒られる。
秩序だと。
今能力主義と年功序列で年功序列は悪いとされてるちょっと風潮があるじゃないですか。
そういう感じがありますね。
もともとの考えとしては変な権力争いよりは全然いいよねという事ですか。
そうです。
お坊さんの場合には実際修行して立派になっていくお坊さんもいるわけです。
あるいはぐうたらなお坊さんもいるわけです。
でもそれは全く関係ないんです。
これはなった日時時間の前後だけで決まるものですからたとえぐうたらなお坊さんでも30年40年サンガで暮らしていればやがて一番上に座ります。
なぜこんな上下関係が必要かというとこれは単に座る時の席順がスムーズに決まるとかあるいは物を分配する時に上の人から順番に配っていくとかそういうサンガの運営の中での序列にすぎないんです。
だから個人の資質は全くそこに反映しない。
そうしますと…ですからサンガの中では絶対に権力闘争が起こらないんです。
組織自体が競争に勝ちたいってなってきたりするとまたちょっと別だけどという事ですね。
ライバルを蹴落としてシェアを拡大するという場合には絶対に能力主義の方がいいんでしょう。
しかしながらその場をこれから100年200年維持していく事がその組織の目的だというならばこちらの方がいいです。
落語界は落語界を勢力拡張する事を目的としてないでしょ。
落語という文化を伝承していく事が目的だからこの形がいいんです。
ここまで徹底的に権力闘争を防ぐ状況にしてそれでやっとサンガは2,500年もつというそういう状況をかなえたんです。
でもこのサンガの中での規則は変えてもいいよっていう。
そう。
何なら律はなしにしてもいいですよという。
ブッダの教えにも2種類あります。
一つは悟りへ向かう道です。
涅槃への道。
これはどんな人間でも人として生まれれば必ず持っている煩悩を消す方法ですからこれは普遍的なものです。
これが時代によって変わったらえらい事ですね。
ところがその悟りのために作った組織サンガを運営するための法律ですね。
これは状況においてどんどん変えればいいと言ってるわけです。
いやすごいと思いますね。
変わるよって。
世の中変わるよって。
ありとあらゆる事が変わるんだからそこには対応しなきゃいけないと。
でもこれね意外に本来変えるべきところのささいな末しょう的な事に大体こだわっておかしな事になっていくっていう。
この本来変えなきゃいけないような事を無理やり変えようとするのに諸行は無常だから流れていくと実は変質しちゃうのは本質の方が変質しちゃうんでしょうね。
一番大事なんです。
自分にとって変えてはいけないものは何で変えてもいいものもしくは変えるべきものは何は整理整頓していいかなっていう。
大事な事はその法律が…さあそして最後。
本当の本当の最期の言葉でございます。
ブッダの一生を全て凝縮したような言葉ですよね。
ここにはどういう事が…。
これはもちろん諸行無常です。
だからお前たちしっかりと人間として生まれてブッダの教えに出会ったんだからそのチャンスを無駄にする事なく諸行無常の中で一生懸命修行せよと言ってる事です。
ちょっとさっきの死とは何だにもつながるものですね。
この言葉が最期であるという事がとてもこういい人生であるというか。
追求してきたものが何かというのがね分かる。
さてこの「涅槃経」にはブッダの死後についても書かれているんですが組織論に関わるエピソードがあるんです。
ご覧下さい。
ブッダの死後まだ煩悩がある弟子たちは「あまりにも早くお亡くなりになった」と泣き叫び煩悩から離れた弟子たちは「この世は諸行無常だ」と泣きたい気持ちを我慢していました。
葬儀は7日間にわたって行われましたが最後に遺体を焼く場面である出来事が起こります。
スバッダという弟子がこう言いだしたのです。
ブッダの死を喜んだのです。
それを聞いた別の弟子の一人マハーカッサパは改めてブッダの教え諸行無常の道理を弟子たちに説きその場を収めました。
一同が落ち着いたあとブッダは静かに火葬されたのです。
こういう人が出てくるんですね。
分かりますけどね。
ねえとっても。
自分の心の中にもいるようなスバッダ。
こういう人が出てくるんですね。
スバッダ。
ただこれを書くというのはどういう意味があるんですかね。
これはこういう人間が出てくるぞという事はもう前提なんですよ。
だからこれからしっかりと仏教サンガを守っていかにゃいかんよという自戒の言葉戒めです自分に対する。
よく人間見てますよね。
また偉いのがさそりゃそうだけどさ書かなくてよくない?というのもあるじゃないですか。
だけどこれ書いとかないと予想だにしない状態で出てきちゃう。
すごい危機管理ですよね。
そうなんだよね。
言っとくという。
組織運営の形が遺言の形をとって全部残されているわけですねこのお経の中に。
だから弟子はこれを読んで…それは今のところ2,500年は続いてるわけです。
「涅槃経」というのはブッダが最後の旅路でそして亡くなって涅槃に入るまでもう死へのストーリーというところのお経ですけどここから先生何を読み取られますか?ブッダが生の総決算としての死に向かっていく姿を語ります。
それを今度は受け取る弟子の姿もこのお経の中には書かれていますから死に向かう自分の在り方というものも学べますしそれから死んでいく人たちを我々がどのように送るかという事もこのお経は非常に明確に出してますね。
やはりその人が何をやってきたかという事。
それが人の死を悼むという事の本当の意味だと思いますね。
何か今こう世の中ちょっとエンディングノートを書きましょうみたいなあるじゃないですか。
その時に結構参考になるような気がする。
そうですねエンディングノートというのはやっぱり自分がどういう死に方をしたいかという事を書きつつやっぱりそこまでいかに生きるかという事をものすごく真剣に考える。
この死というゴールみたいな所に向かってるんだけどそれはいかに生き方を考えるかっていう。
考える時間というのが何より大切です。
外からのつまらない価値観に翻弄されるんじゃなくて自分の価値観で今の自分と死んだあとの事をきちんと予想するという事はとても大事な事です。
その考える自体が修行という事ですね多分。
「正しい」に近づこうとする事が修行なんだから。
まず何が自分にとって正しいかという事は自分で自分を見つめないと見いだせない事ですもんね。
でもそういう答えがなかなか出ないとか「正しい」になかなか近づけないような事を考える事に対する僕はてれみたいなのがちょっとあって。
何をかっこつけてるんだ俺はってあったんですけどもう47なんで若い頃に持ったそのてれみたいのを一旦捨ててちょっとやっぱりもう一回「正しい」は何なんだけど今できてない現状勘弁してくれぐらいのところまではやってみようかなってちょっと思いますね。
日々ね煩悩についてなんか考えて「そりゃこんな世の中煩悩消すなんか無理無理。
はいじゃあ」ってなるけどとりあえずその時間を5分延ばし10分延ばしもしかしたら一日の最後は必ず30分この事考えますって習慣ができたらそれはすごい正しい方に向かってるすごく修行してる事になりそうだな。
ブッダでもこんだけかかってるんだから今日のところはここぐらいでしょうがないだろという所までは。
そうかな。
そうですそうです。
「涅槃経」って遠いかなと思ってたけどすごくちょっと意味が。
自分たちにおよそ使えるもんだと思ってなかったです。
ああそうですか。
ねえ今回。
すごい使えるという事が分かりました。
仏教というのはそういう宗教です。
つまり外側に何か不思議なものを認めるわけでもないし我々が日常で暮らしてる中でそれから悟りまで行くにはどうしたらいいかっていう一番下のレベルから一番上までの道を全部語ってくれるのが仏教ですから。
我々だってその中のちゃんとどこかのレベルにいるわけです。
だから全ての人に役に立ちます。
やっぱり心の病院かも。
そうですね。
無駄に悩んでるのとさちゃんと修行になるような悩み方してるのは大きな差な気がするんだよね。
はい。
それが分かるだけでももう一歩上がってるという事になります。
いやまあ2,500年話したい事はもう尽きませんけども時間ですからね。
はい。
先生どうもほんとにありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
2015/05/06(水) 12:00〜12:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 ブッダ 最期のことば[終] 第4回「弟子たちへの遺言」[解][字]
ブッダは死に際し弟子たちに向けて遺言ともいうべき言葉を語り始める。生涯をかけて積み上げてきたものだけが示せる荘厳なブッダの死の意味を読み解く。
詳細情報
番組内容
ついにブッダに死が訪れようとしていた。沙羅双樹の樹下に横たわったブッダは、弟子たちに向けて遺言ともいうべき言葉を語り始める。「修行の大切さ」「時代にあわせて柔軟に戒を運用すること」を伝えるなど、最期の最期まで、自分の死後に残された人たちが困らないよう細かい心配りをするブッダ。それは、生涯をかけて積み上げてきたものだけが示せる荘厳な死だった。第四回はブッダの死の意味を読み解く。
出演者
【講師】花園大学教授…佐々木閑,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】大杉漣,音尾琢真,【語り】小野卓司
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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