父が若い頃に描いたデッサンが出てきましてですね。
今から77年前14歳の少年が描いたデッサンです。
こんなに上手だったんですか?出てきてびっくりしましたけれども。
竹久夢二に影響受けてる?そうですねそんな感じですね。
すごいですねこれは。
少年時代に磨かれた才能は後に開花し広島を代表する画家を生み出しました。
画家四國五郎。
戦後反戦反核をテーマにした絵を描き続け平和運動の中心として活躍しました。
去年89歳で四國は亡くなりました。
誰にでも分かりやすい絵で平和を訴え続けた姿が今改めて注目されています。
四國が生涯を懸けて取り組んだのは母と子の姿でした。
戦争で犠牲になった我が子を強く抱きしめる母。
原爆によって自らの命を落とそうとしながらも子を助けようとする母。
四國は母が抱く怒りと悲しみを表現し続けたのです。
この赤がその傷ついたその血の…かもしれませんね。
この怒り。
怒りの赤でそしてこれが心臓から噴き出たような。
だから心の中から噴き出たような。
その激しさがあったんじゃないでしょうか。
画家としての人生を平和を訴える事に捧げた四國五郎。
どのような思いで母と子の作品を描いたのか見つめ直します。
画家四國五郎が多くの作品を描きその生涯を過ごした広島市。
まず四國が作品を描き続けた自宅のアトリエを訪ねました。
こんにちは。
どうもこんにちは。
出山と申します。
長男の光さんです。
去年亡くなった父の遺品を整理しています。
どうぞ。
どうもすいません。
ありがとうございます。
この奥が父のアトリエになります。
どうぞ。
うわ〜。
わあ。
え〜ここで描いてらっしゃったんですか。
大体ここで絵とか原稿とかそうですね大体この机に座って描く事が多かったですね。
いつも光さんが見てた五郎さんの姿っていうのは?とにかく朝から晩まで絵を描いてるという感じでしたね。
もうとにかく描いてる。
お外に行っても描いてる家の中でも描いてる。
常に朝から夜遅くまでず〜っと描いてるというのが一番父の印象としては強いですね。
絵の具や筆などどんなに古びた道具も大切に使っていた四國。
日中は市役所に勤めながら夜間や休日に画家として絵に取り組みました。
いろいろ整理をしてる中で実はこんなものが出てきましてこれは父が若い頃に描いたデッサンが出てきましてですね。
本当びっくりしたんですけど。
って事は戦前?もちろんですええ。
父が1415ぐらいに描いた。
こんなに上手だったんですか。
とにかくだから絵の練習のために恐らくいろんな当時の雑誌とかいろんなものを模写をしたんじゃないかなと思うんですね。
今でしたらこんな画集とかいっぱいありますけどその当時手元には当然なかったでしょうから。
すごいですねこれは。
これ樋口一葉「たけくらべ」ってそれを恐らくイメージして。
これはだから自分で挿絵っていうよりも何か描いたんでしょうね。
小学生の頃から絵の才能はずばぬけ神童といわれるほどでした。
10代の後半になるとポスターの制作を依頼されるようになりました。
中学生ですからね今で言う。
相当あれですよね早熟ですよね。
早熟ですよこれ。
あ〜昭和14年12月1日印刷者四國五郎。
だからこのぐらい描きためたところで自分でこういう形で想定して…。
定価非売品。
まあ冗談ですけどね。
やっぱりご本人はここまでの事をやっていたというとやっぱりプロの画家といいますか画家として生きていきたいっていう。
それはもう間違いないですね。
子どもの頃から絵描きになる事しか考えてなかった。
そういう人だったみたいです。
みたいというかそうですね。
戦後四國は少年時代には思いも寄らなかった社会派の画家になりました。
たくさん…。
結構大きな絵もあるんですね。
そうですね。
やっぱり母子像の絵が多いんですか?そうですねやっぱり一番多いのは母子像の絵が多いですね。
四國が題材にし続けたのは母と子の姿母子像です。
その作品は数百点にも及びました。
なぜ母子像を生涯のテーマに選ぶ事になったのでしょうか?大正13年四國は広島県三原市の農家に生まれました。
男ばかり5人兄弟の三男でした。
昭和に入り兄2人が出征。
四國は農作業を手伝いながら絵に取り組みました。
絵の得意な弟の直登さんと仲のよかった四國。
将来は2人で画家になる約束をするほどでした。
しかしその願いは戦争によって引き裂かれます。
昭和19年四國は二十歳の時満州へ出征しました。
昭和20年終戦。
四國はソビエト軍に連行されシベリアに抑留されました。
零下50度の中森林伐採など過酷な労働に従事させられました。
「この収容所は巨大なモミの森林に包まれている。
森の上にひときわ高くそそり立っているモミの巨木の辺り確か日本の方角であり私の家があるはずである。
母よ2人の弟たちよ元気であってくれ。
この果てしなく広がるシベリアの大地の上でこの私をこの運命に追いやったものは何か?生きねばならぬ。
生きねばならぬ」。
昭和23年。
四國は3年間のシベリア生活を終え故郷広島に戻ってきました。
四國は広島に原爆が投下された事を知ります。
そして同時に知らされたのが弟直登さんの被爆死でした。
町の警備に当たっていた直登さんは爆心地からおよそ1キロにある兵舎で被爆。
負傷した左足を引きずりながら自宅に戻りました。
直登さんを必死に看病したのが母のコムラさんでした。
自らも被爆し下痢などの症状に苦しみながら夜を徹して直登さんの世話を行ったのです。
しかし被爆から3週間後直登さんは亡くなりました。
四國は戦争を引き起こしたものへの怒りを覚えます。
「畜生ッ!」。
「何でも握っているものをヘシ折ってしまいたい怒りがカッと湧き上る」。
「闘争心の鈍くなった時は直登の事を思い出して火の玉のようになろう」。
父にとってみたらやっぱり戦争の体験それからシベリアでの悲惨な体験それから直登さんの死そういうものすごい過酷な経験というものがやっぱりものすごく大きな経験重い経験だったと思うんですよ。
恐らくそこで絵描きにはなるけども普通の絵描きではなくて戦争は駄目だ原爆は駄目だそのための平和のアピール平和のメッセージについての絵を俺は描くんだというですねものすごい強い決心をしたと思うんですね。
あ〜これは?一番古い絵の一つじゃないかなと思うんですけども1951年。
8月6日という原爆のシーンを思い描いて描いた絵なんですけども母と子がそれぞれ逃げ惑ってる。
昭和26年に発表した母子像「8月6日」。
原爆の惨禍で苦しむ子どもをひん死の状態の母が守ろうとする姿が描かれています。
自らも傷つきながら弟の看病に明け暮れた母の姿を思い浮かべ四國はこの作品に取り組んだのです。
四國と40年来のつきあいがある画家がいます。
平和を願う美術家の展覧会を四國と共に運営してきた人です。
どうぞお入り下さい。
すいません。
これをね四國さんが似顔絵描いて下さったんですよ。
あ〜すてきな絵ですね〜。
もう本当に美人に描いて下さるんでみんな喜んでます。
これはちょうど広島平和美術展という作品展を開催しておりまして私や四國さんやほかの人たちが受付してたんですね。
その時にちょっと来場者が途絶えましてその時に「似顔絵でも描きましょうか?」言って描いて下さったんです。
千馬さんは四國の作品「8月6日」を目にした時大きな衝撃を受けました。
四國さんは戦後お帰りになってるからこの惨状は見てないはずです。
だけどその中へご自分の怒りをこの黒い…そしてこの肌そしてこの火の中に全部入ってるような気がします。
その中で亡くなっていくこの人間の肌色の少なさとそれに対するこの赤。
これは今本当現状として燃えてた火かもしれませんけどもこの怒り…怒りの赤でそしてこれが心臓から噴き出たようなだから心の中から噴き出たような…。
私にはそうしか見えない。
怒りしか。
本当に不条理な戦いをしてね命を奪ってねそういうものの怒りの激しさがご自分がご覧になった現場でもないのにこういう惨状を本当にこの赤い色と黒で表されたっていう事はその心にその激しさがあったんじゃないでしょうか。
思い切ってその怒りをぶつけられた絵じゃないでしょうかね。
昭和31年四國は新たな母子像を発表しました。
それは作品「8月6日」とは表現が大きく違っていました。
ごく普通の日常が描かれていたのです。
どうしてこんな変化があったというふうに…?それはやはり四國さんがねやっぱりご家族を得られたっていうんですか本当に愛する人と巡り会って心の安らぎが少しずつ出てきたんじゃないかと思いますよ。
四國は27歳の時幸枝さんと結婚。
その後2人の子どもに恵まれました。
幼少の頃から絵を描くのが好きだった…そしてわんぱくだった…四國は子どもたちの成長記録をノートに残しています。
産湯に入れた育児体験や日々成長を見せる子どもの姿など事細かく記しています。
その中に妻と2人の子どもの様子が描かれていました。
その姿を基に四國は平和を訴える母子像を仕上げたのです。
四國さんの思いっていうのはこの絵にどのように表現されているというふうに…?愛する人たちに出会ったっていう感じで恵まれてご自分の家庭を持たれたっていう心の安らぎはあると思いますよ。
だけど私はそう見てなくてやはり理不尽なものへの怒りまだ怒りが消えてないと私は思います。
それはどの辺りに表れて…?絵を描く人にはすぐ分かると思うんです。
この黒い部分の表現の。
こういう線っていうのは本当は人物を殺しかねないですよ。
これ指で押さえますでしょ?そうしたら本当に母子像の優しさ。
ほら一人は安らかに乳房を含みながらそしてお母さんの膝に安心して寝ている。
だけどそういうものの中にこの強さ。
この強さ。
この強さっていうのは私は四國さんのやっぱり戦争への怒りを感じますよ。
愛情あふれる日常生活を破壊する戦争への怒り。
四國は子どもを抱く母の手や寄り添う子どもを支える足元などキャンバスの至る所に黒を使い太い線で怒りを表現しているのです。
四國は数百点に及ぶ母子像で平和の大切さを訴え続けました。
子どもを抱え平和運動の署名に応じる母の姿を描いた作品です。
子どもたちには被爆体験の苦しみを味わわせたくないという母の願いを表現しています。
勤労奉仕に向かう息子を送り出す母の不安を描いた作品です。
8月6日広島の多くの少年少女たちは家を出たきり戻ってきませんでした。
母が手に持つ弁当箱は白い布で覆われ息子が遺骨になって戻ってきた事を象徴的に表しています。
吹き荒れる風に立ち向かう母子を描いた作品です。
風でイメージしているのは戦争や恐怖迫害などです。
子どもを守ろうとする母の手を大きく描いています。
昭和30年代半ばから15年にわたり繰り広げられたベトナム戦争。
四國の心が揺さぶられた大きな出来事でした。
罪のない女性や子どもが100万人以上も犠牲になったのです。
昭和40年四國が描いた作品「ヴェトナムの母子」。
戦禍で亡くなった我が子を強く抱き締める母の姿。
四國は深い悲しみと同時に鬼と化した母親の怒りを表現しました。
四國はベトナム戦争をテーマに数多くの作品を残しました。
被爆体験のある広島には世界の戦争をやめさせる責任があると感じていたのです。
被爆地広島から平和のメッセージを投げかけ続けた四國に影響を受けた画家がいます。
原爆ドームを500枚以上描き続けてきた…家族が被爆した経験を持つガタロさんは広島と向き合おうとしてきました。
その活動を後押ししたのが四國です。
ガタロさんが宝物として大切にしている四國からの葉書があります。
僕が個展開いた時に四國先生に葉書出したんです。
「是非来て下さい」と。
ほんで「悪いとこは指摘して下さい」って。
30年前ガタロさんが開いた個展を訪れた四國は感想と励ましの文章を送ったのです。
そこには「同じテーマを描き続ける事が強いメッセージにつながる」と書かれていました。
(ガタロ)「絵を描いてきて時間は私の方が多く修練の量も私の方が多いはずなのですが」っていう事に始まって「今のガタロの状態でそのまま続けてったらいい絵が描けると思います」って書いてあるんです。
絵を描いて表現するっていう事になったら「ガタロ息してるだろ?」と。
毎日鉛筆動かさなきゃ駄目だと言ってるんだろうと思うんです。
ガタロさんは誰にでも理解しやすい「母子像」という題材を選んだ事に四國のすごさがあると感じています。
四國先生ってね結局借り物じゃないんです。
これが芸術になるから描くとかそういうこざかしい事を思ってないんです。
表現するっていう事の一番要はね難しい事を難しく語るのは今どきの風潮ですよ。
だけど難しい事をより分かりやすく優しく伝えるっていうのは一番難しい事ではないでしょうか。
母子っていうのは原点でしょ。
子のない親はたくさんおられます。
しかし親のない子はいないですよね。
だから一つのつながりの原点を母子像に見いだしたんではないでしょうか。
ガタロさんが描いた「原爆ドーム」。
絵の中でスケッチしている人物は四國五郎です。
被爆地広島と向き合い続けた四國の姿を象徴させているのです。
昭和50年代後半四國は新たなテーマに取り組むようになりました。
これは父がものすごく大事にしてた絵で原爆ドームのすぐ近くの相生橋っていうそれ描いた絵なんですけども。
被爆体験や戦後たどってきた広島の歴史をどう未来に伝え残すのか。
かつて原爆ドームの北側の川岸に広がっていたバラックを描いた作品です。
原爆によって家を失った人たちが自ら廃材を拾い集めて建てたバラック。
苦しい生活の中で肩を寄せ合い助け合った人々。
復興とともに戦後の厳しい現実が消えていく事に四國は疑問を抱いたのです。
ここに「備忘ノタメ」っていうふうに父が書いてるんですけどね。
額縁も父がこれ全部作ったものなんですよ。
ここのバラックが解体される時に父はそのバラックの廃材をもらいに行ってですねそのバラックの廃材でこの額縁を作ってそこにこの絵を入れたという。
「原子爆弾により住居を失いたる者」。
「バラックを建て」。
「原爆スラムと称したり」。
四國は風化させてはならぬという自らの戒めを書き込んだのです。
光さんこれを描かれたのが1984年っていうふうに書かれてますね。
おそらく84年といいますともうこういうバラックが川沿いに立ち並んでたっていう風景ではなかったはずですよね。
あの川がきれいに整備されて緑が見えて。
あえてその時期に「備忘ノタメ」という事でそのバラックがたくさん立ち並んでた頃の事を描いて残されたっていうのはどういう思いがあったというふうにお考えですか?どんどんどんどん広島が復興してきれいになってたと思うんですね。
だから逆にきれいになればなるほどその原爆や戦争の記憶が風化していくと。
実際広島の町がどんなにきれいになっても自分たちが原爆や戦争を経験したんだという事を絶対忘れちゃ駄目だと。
だから廃材で作った額縁に絵を入れてそこに「備忘ノタメ」と書いてそれを強いメッセージとして作品にした。
町がきれいになればなるほど戦争や原爆の記憶が風化していくというやっぱり危機感というかそれはやっぱり父にこういうものを作らせたんだと思うんですけどね。
被爆した建物広島赤十字・原爆病院を描いた母子像です。
病院は新しく建て直すため解体工事が行われたのです。
この病院はあの8月6日傷ついた人たちが担ぎ込まれ治療が行われた場所です。
建物の周りに治療に当たった看護師やそこで亡くなった人たちの姿を描いています。
四國は自分の名前を名札に書き込んだ少年を登場させています。
あの日の記憶を薄れさせないでほしい。
死者の思いに四國は寄り添おうとしたのです。
そして母に抱かれこちらを指さす子ども。
絵を見る人たちに問いかけているかのようです。
当時四國は平和のメッセージを描き続ける責任を語っています。
そうしてそれを見て何がしかの感じを受けた方は…去年3月四國五郎は89歳で亡くなりました。
生涯を懸けて描き続けた母子像は数百枚にも及びました。
今残された四國の作品が見直されようとしています。
自宅で眠っていた未発表の作品を含めて展覧会を開く準備が去年から進められてきました。
これもね原爆か何かの写真をねモデルに描いたんじゃがこんなにリアルに描いたのはないんよ。
ない。
企画したのは生前からつきあいのあった画家や関係者たち。
これはいいやつですね。
時代とか。
まだ初期の作品じゃろこれは。
1967年だからねまだね。
四國さんのように生きたいとみんな思ってるんですよ。
今命がね本当に一番大事な命が粗末にされるでしょ。
その時代に子どもも含めてねやっぱりこの四國さんの伝えたかった事がねその絵とか詩とかこの展示ですごく伝わると思います。
広島の人間で広島で育った人間が8月の暑い時になったら平和平和言いよるけれどもそれでいいのかという事は反対に四國さんのこの絵を通じて言いたいですね。
毎日言わないかんのですよ。
僕たちができる事はそういう事かなと思う。
正直思いますね。
被爆70年を迎えた広島。
四國が大切にした母と子の愛情はいつの時代も変わりません。
誰にでも分かりやすく平和の大切さを伝えようとした画家四國五郎。
そのメッセージは今なお私たちの心に強く訴えかけています。
2015/05/07(木) 15:15〜16:00
NHK総合1・神戸
ろーかる直送便 プライムS「“母子”に捧げた人生〜画家 四國五郎〜」[字]
自身はシベリア抑留、弟は被爆死。画家・四國五郎が、戦争への怒りを表現するのに拘ったのは「母子像」だった。その思いを残された資料や家族の証言などからひも解いていく
詳細情報
番組内容
去年3月、画家・四國五郎が89歳で亡くなった。自身はシベリア抑留を経験し、弟は被爆死、さらに兄を戦争で失った。そうした四國は亡くなるまで「母子像」を描き続けることで、戦禍の苦しみや日常を壊す戦争への怒りを表現し続けた。自宅に残された日記などの資料や亡き父と向き合おうとする家族、美術仲間の証言を通して、戦後、四國がどのような思いで「母子像」にこだわり続けたのかをひも解いていく。
出演者
【キャスター】出山知樹
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – ローカル・地域
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
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