NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(2) 2015.05.10


国内外に甚大な被害をもたらした太平洋戦争。
日本人だけでも300万人以上が亡くなりました

日本が戦争へと向かう時新聞やラジオなどのメディアが大きな影響を与えたといわれています。
満州事変をきっかけにメディアは対外強硬論へと傾き民衆もまたそれを支持しました
NHKには元新聞記者などの証言を基に開戦前のメディアと民衆について検証した番組があります
日本軍の快進撃は世界恐慌に苦しんでいた国民を熱狂させました。
販売部数が落ち込んでいた新聞業界も一気に沸き返ります。
加熱する新聞各社の報道を受けて民衆は満州国建国に喝采を送ります。
そしてラジオも民衆の熱狂をあおっていきました
メディアと民衆は軍と同調して無謀な戦争へと向かいました
無条件降伏に終わった戦争から70年
過ちを繰り返さないためにどうしたらよいのか考えます
こんにちは。
戦後70年の今年「NHKアーカイブス」では戦争をテーマにしたさまざまな番組をお送りしています。
今回は「日本人はなぜ戦争へと向かったのか。
メディアと民衆」にスポットを当てて考えてまいります。
ゲストの方をご紹介致しましょう。
昭和史にお詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんです。
先月の「外交」に引き続きお越し頂きました。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
保阪さんは前回出演頂いた際に太平洋戦争そしてそれに至る時代というのは今の私たちにとって最良の教科書だとおっしゃっていましたがその観点で今日これから見てまいります「メディアと民衆」をテーマにした番組どこに注目をされますでしょうか。
あの〜私はですね昭和の戦争はまあ軍がね戦争を全部引っ張っていったというような形で言われるんだけども必ずしもそうではない。
もちろん軍が中心である事は間違いないですがメディアや国民がですね過剰に熱狂していくそのプロセスがやはりあの〜戦争を過熱化させていったと思うんですよ。
今日のフィルムはですねそういう事を丁寧に教えてると思うんですね。
で同時にね私たちはこういったフィルムを見て想像力っていうのを持たなきゃいけないと思うんですね。
歴史を単なる過去の出来事として切り離して見るのではなくてもし自分がその時代に生きてたらあるいはこういう時に自分だったらどうするんだろうかとそういう自分の問題として受け止めるっていう事が大事だと思うんですね。
それはやっぱりこういったフィルムの中にですねやっぱり見えないところで苦しんだ人たちそれからそういう人たちの声なども…直接は聞こえないけどもこういう声が抑圧されていたんだろうなというような想像力ですね。
それを持つ必要があると思いますよ。
はい。
では早速番組をご覧頂きましょう。
避けられなかったと私は思いますよ。
難しいですよね。
これはね。
どうだろう…。
回避できたとは思えないですけど。
みんな戦意高揚っていうかな。
みんな一生懸命とにかく「勝つんだ勝つんだ」と言ってね。
世の中の騒ぎかたすごいなと思いましたよ。
報道がねあおったんじゃないの。
NHKもマスコミもずるいんですよ。
終わった途端に「あの戦争は間違っていた」と言う。
一番進めたのはマスコミですから。
70年前日本社会は異様な空気に包まれていました。
万歳!万歳!作られた熱狂の中で戦争への道を歩んでいたのです。
この熱狂を作り出したのは新聞ラジオなどのメディアです。
日本新聞協会が戦後元記者たちに聞き取りした証言テープが今回の取材で見つかりました。
(取材者)行方不明だったやつ…?その数100人以上。
そこからは戦争という時流に乗ったメディアの姿が浮かび上がってきます。
一方軍によるメディアを使った世論操作の実態も分かってきました。
その日日本放送協会の臨時ニュースを第一報に開戦の知らせが日本中を覆いました。
メディアと民衆の熱狂に包まれながら突き進んできた末の開戦でした。
「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」。
4回シリーズの「NHKスペシャル」今日はその3回目です。
これまで2回は外交の問題それから陸軍という組織の問題を取り上げました。
今日は新聞ラジオなどのメディアを取り上げたいと思います。
まずは新聞ですが皆さんは戦前のメディアと聞いて何を連想なさいますでしょうか。
これまではともすればですねメディアというのは軍の言論への弾圧とか統制によって自由を奪われた被害者だという一面で語られがちでございましたけれども果たして本当にそうだったのか。
これをご覧頂きます。
これは当時の主な新聞三社の発行部数の合計の推移を表したグラフでございますが。
あの戦争へと向かった時代その数が大幅に伸びている事が分かります。
つまりメディアもまたですね日本人を戦争に駆り立てた大きな要因の一つだったといわれるゆえんでございます。
メディアがその姿勢を転換したのは満州事変だというふうにいわれております。
さあその時に一体何が起こったのでございましょうか。
今年1月一人の元新聞記者を訪ねました。
(取材者)おはようございます。
どうぞいらっしゃい。
どうも。
戦前の新聞界を知る数少ない人物です。
戦争始まる前です。
新聞記者時代。
満州事変をきっかけに新聞記者を目指し終戦の日に報道の戦争責任を感じて辞表を出しました。
旧遼寧省奉天郊外柳条湖。
ここから満州事変が始まりました。
(汽笛)
南満州鉄道の爆破をきっかけに日中両軍が衝突。
現地の特派員たちは一気にざわめき立った
・・奉天の独立守備隊第2大隊に出動命令が下りました。
「奉天の街は大砲と機関銃の音と軍隊の活動で沸き返った。
奉天通信局はもちろん徹夜だ。
妻もボーイも総動員の活動だ」
関東軍は部隊を次々に投入。
本格的な戦闘状態に入ります。
事変勃発の翌朝現地からの一報を受けた新聞各紙に速報が躍ります。
報道合戦が始まりました。
一日に何度も号外が刷られ我先にと求める人々で街は騒然となりました。
大手新聞社は自社の飛行機を使って現地との間を往復。
写真入り号外を次々に発行していきます。
軍の最新の動きを追いかけるだけで号外は飛ぶように売れていきました。
日本軍の快進撃は世界恐慌に苦しんでいた国民を熱狂させました。
販売部数が落ち込んでいた新聞業界も一気に沸き返ります。
政府は満州事変不拡大を決定。
しかし関東軍は独断で全満州へ兵を進めます。
「この軍の行動を支持すべきかどうか」。
新聞社にとって重大問題が浮上しました。
しかし既にほとんどの新聞が事変後関東軍支持へと舵を切っていました。
論説記事までが「満州は日本の生命線」と強硬論を唱えます。
当時最大部数を誇っていた全国紙記者の証言です。
大正デモクラシーの時代には軍の拡大を批判していた新聞各社がなぜ軍の支持に回ったのか。
鍵を握る一つの事件が満州事変の直前に起きていました。
敵情偵察中の陸軍将校が中国兵に殺害された事件です。
残虐性が強調されたセンセーショナルな記事。
中国憎しの論調が読者の心をつかむ中で満州事変が発生しました。
各社が満州事変拡大を支持する中大手新聞社の中で朝日新聞は慎重論を唱えました。
「早く外交交渉に移して地方問題として処理すべし」と訴える社説。
しかし各地で朝日新聞の不買運動が発生。
社内でも「軍部支持やむなし」の声が出始め社論を転換していきます。
こうした状況で当時東京朝日新聞編集局長だった緒方竹虎が自ら軍に接触を図っていたという軍幹部の証言テープが見つかりました。
緒方はリベラルな姿勢で知られる言論界の重鎮でした。
今村は緒方のもとを訪ねた
率直に陸軍の考えを言うてくれ。
今村は軍内部の実情を打ち明ける
実際今度の場合は我々が無力で中央の統制を関東軍に押しつける事ができなかった。
しかし現地に行って在留邦人が圧迫されて非常に悲惨な状況を見てくると石原や板垣がああいう事をやったのも人間としてやむをえない。
なんとか遅ればせながら世論が満州事変を支持して頂きたい。
(テープ)「朝日新聞なんちゅうものは公公然と反対でしたから」。
軍幹部が証言する新聞社の方針転換。
生前の今村と緒方を直接知っている元朝日新聞記者の武野武治さんに証言テープを聞いてもらいました。
(取材者)そうですね。
新聞各社が満州事変で軍を支持したのは販売部数を伸ばすためかそれとも満州権益という国益を考えての事か。
いずれにせよ新聞社は情報源である軍に急接近していきます。
記者たちは決定的な事実を知らされます。
満鉄線の爆破は関東軍が仕掛けた謀略だというのです。
しかしどのメディアもこの事実を太平洋戦争が終わるまで報道しませんでした。
この事が国民に満州事変は日本の正当防衛だと信じ込ませ日中戦争太平洋戦争への道を進む発端となりました。
メディアの報道によって満州権益は日本人にとって最も重要な国益となっていきます。
民衆は満州国建国に喝采を送りました。
そしてメディアと民衆の熱狂がやがて1人歩きを始めます。
国際連盟からリットン調査団が派遣され報告書を作成。
満州国は日本の傀儡だとして独立国家とは認めませんでした。
軍は激しく反発。
政府は連日国際連盟との協議に追われました。
しかし一環して強硬論を唱える新聞各紙の社説には公表翌日から報告書への非難罵倒が並び国際連盟への怒りをあらわにします。
更にリットン報告書は断じて受け入れられないと全国132の新聞社が世界に向けて共同宣言を出します。
新聞は満州国堅持を掲げ日本の外交方針を自らリードするという姿勢を打ち出したのです。
新聞はついに国際連盟を脱退すべきだという主張まで連日載せるようになります。
陸軍が引きずるような形で新聞も二言目にはすぐ国際連盟脱退だの何のと騒ぎ立てる。
一体なぜあんな事をするのか。
あれは新聞が出すので陸軍が宣伝するんじゃない。
向こうで勝手に書くのだからやむをえない。
新聞社が勝手に書くのならばなぜそれを取り締まらないのか。
今日の陸軍の力をもってすればそれくらいの事は何でもないではないか。
高橋是清は怒りをあらわにするもののメディアの暴走を止めるすべはなかった
1933年2月リットン報告書に基づく対日勧告が採択されます。
連盟脱退だけは避けるよう訓令を受けていた松岡洋右は敗戦将軍の心持ちで議場を後にし国際連盟を脱退します。
しかしメディアは堂々と退場した松岡に喝采を送り世界にもの申した希代の英雄と祭り上げます。
帰国した松岡を待っていたのは国民の熱狂的な歓迎でした。
松岡はこう語りました。
「口で非常時と言いながら私をこんなに歓迎するとは。
皆の頭がどうかしていやしないか」。
政府の打ち出した方針に対してメディアが「そんな弱腰でどうするんだ。
そんな事で国益守れるのか」という事を声高に批判する。
あるいは国際問題が起きますと「何て言ったって正義は日本にあるんだ」という事を絶叫し続ける。
こういう強硬論に国民の多くは喝采を送ります。
一つのメディアがこういう流れを作りますとほかのメディアもそれを見て一斉におんなじ事を言いつのる訳ですね。
そして国民はそれを見て一斉にそれに同調していくようになるのです。
こうして軍とメディアと国民民衆とこのトライアングルによって生み出された世論というものはしばしば熱狂を伴います。
そうしたその熱狂の中で言論の自由は次第に失われていくのでございます。
満州事変で始まったメディアの軍への接近。
一方で軍に批判的な態度を残す新聞には言論弾圧が忍び寄りました。
その一つ信濃毎日新聞。
きっかけは「関東防空大演習を嗤う」と題する記事でした。
これまでも軍部に批判的な記事を書いてきた主筆桐生悠々は「木造家屋が密集する日本は空襲されたら終わりであり防空演習は役に立たない」と論じました。
この記事が軍部の目に留まり信濃毎日新聞は言論機関としての岐路に立たされます。
9月の暑い日信濃毎日新聞常務小坂武雄のもとを信州郷軍同志会と名乗る団体が突然訪れた
我々は会員8万を代表して主筆桐生と編集局長三沢の退社ならびに貴殿による謝罪文掲載を要求する。
信州郷軍同志会とは長野県在住の軍務経験者の会が組織した団体です。
自分たちの主張にそぐわない新聞には不買運動をもって圧力をかけました。
全国紙の進出によって経営が落ち込んでいた地方紙にとって不買運動は最大の脅威でした。
めいめいが信じるところを論じ合いおのずから落ち着くところに落ち着いてこそ真の世論は生まれるべきものだ。
しかし信州郷軍同志会は譲歩の色を見せなかった
「何回会見しても全く要領を得ない。
先方の方針は既に決定しているので議論は既に無用なのであった。
信濃毎日も部数は2万にすぎず不買運動をもって脅かされるに抗しえず屈辱的な終結を告げるに至った」。
数日後信濃毎日新聞に小さな謹告が出されます。
それは新聞社が全面謝罪を行い主筆桐生悠々が退職する旨を告げるものでした。
しかしこうした事態にも社内の空気は冷ややかでした。
言論弾圧に無力な経営者と社内の冷めた空気。
状況は東京の大手新聞社も同じでした。
この夜永田町の料亭に集まったのは在京大手6社の新聞記者11人だった
信濃毎日の桐生悠々も防空演習を論じて問題にされ結局辞める事になりましたね。
経営的圧迫といいますかあまり自分の新聞が売れなくなるような事は書かない方がいいと思います。
資本主や自分の同僚に迷惑を及ぼしちゃ相すまんという気持ちが記者にあるんじゃないですか?最近は政府の禁止事項が非常に多いんですよ。
非常に細かいものまで何十と来ております。
一層禁止してくれた方がよい。
そうなれば苦心して書く必要はなくなります。
軍への批判を続けると今自分が所属している新聞社の存続が危うくなるという事で彼らは軍への批判を控えて国益を論じるようになる。
つまり論じる幅がどんどんどんどん狭められていった訳ですね。
自分で自分の首を絞めるようなこういう自己規制は全国各地でいろんな所で行われます。
そしてその空気がやがて言論統制を呼び込む事にもなるのでございます。
さて皆さんこの時にですね非常に強力な新興メディアが台頭致しました。
それはラジオでございます。
ラジオの契約台数は大手新聞の発行部数をはるかにりょうがしております。
つまりラジオが新聞と相まってですね日本人を戦争へと向かわせた熱狂を作っていったのでございます。
第34代内閣総理大臣近衛文麿。
彼にはもう一つの顔がありました。
戦前のラジオ放送を独占していた日本放送協会の総裁です。
太平洋戦争が終わるまでその職にありました。
近衛の総理大臣就任ひとつき後日中戦争が勃発します。
その直後近衛は世論を味方につけるために首相官邸にメディアの代表40人を集めました。
今事件は全く中国側の計画的な武力抗日なる事もはや疑いの余地なし。
挙国一致政府の方針に協力されたい。
近衛は新聞通信放送の代表者に政府への全面協力を要請する。
会合が行われたのは夜9時。
同盟通信の社長が代表して協力を約束した。
政府とメディアによる挙国一致報道の始まりだった
あらゆるメディアの中でも近衛はラジオを巧みに活用し国民を熱狂へと駆り立てようとしました。
(拍手と歓声)これは日中戦争勃発2か月後に行われた国民の戦意高揚をねらった演説会です。
近衛の勇ましい言葉に観客の喝采が起こりその興奮がラジオ中継によって全国に届けられました。
(拍手と歓声)
(拍手と歓声)演説会場から拍手と歓声を電波に乗せ聴き手に国家との一体感を感じさせたのはナチスの手法です。
スローガンは…当時政府の監督統制下にあった日本放送協会はこのナチスの手法を長年にわたって研究していました。
組織体制や番組編成までモデルにしています。
首都南京の陥落が伝わると国民は熱狂しました。
デパートでは南京陥落セールが行われ東京では戦勝祝賀のちょうちん行列に40万人が参加しました。
一方海外では日本軍による南京での非戦闘員の殺害などが伝えられ非難が起こります。
日本国民にはこうした状況が知らされず日本の世論と世界の認識は離れていきます。
しかし首都が陥落しても日中戦争は終わらず長期戦に突入。
国民の戦意を保つためにラジオの戦争放送は熱狂を作り続けます。
世界初とうたわれた前線からの戦争中継です。
中国・江蘇省徐州。
日本軍が一大戦力を投入した殲滅作戦の現場です。
軍の全面協力の下中継班が派遣され現地軍の監修による原稿が読み上げられました。
敵の主力軍は素早く撤退し殲滅作戦としては空振りに終わります。
しかしラジオは勝利は近いと国民を鼓舞します。
この前線中継の直後靖国神社には人々が詰めかけ社前にぬかずく人の姿が深夜まで続きました。
戦争の実態を知らず日本の力を過信する世論をラジオが作り出していきました。
(取材者)神様?ラジオの言う事は正しいと。
そうそうそう。
しかし国民の間には不満が生まれてきます。
報道では日本は連戦連勝なのになぜ中国は屈しないのか。
戦争は長引き経済は悪化の一途だ。
その不満は中国を支援するイギリスとアメリカへ向かっていきます。
イギリス大使館には6万人の民衆が詰めかけ抗議の声を上げました。
日本とイギリスが対立する中アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告。
対日経済制裁の強化に踏み切りました。
これに日本の世論は一段と反発します。
対米外交は強硬に出るべきかとの世論調査の問いに「強硬に出る」が2/3を占めるようになりました。
そこに飛び込んできたのが第2次世界大戦でのドイツ快進撃のニュースでした。
日本の民衆の間にドイツの時代が来たとの空気が広がります。
新聞各紙は陸軍と連携して連日日独伊三国同盟を主張世論に訴えました。
英米に対し不満を募らせていた国民はドイツとの同盟を熱狂的に支持します。
政府内で当初三国同盟に反対していた外務省や海軍は劣勢に立たされていきます。
新しく外務大臣となった松岡洋右の下三国同盟は成立。
調印に臨んだ来栖大使はメディアへの不信を記者団に漏らしていました。
近衛に親しかった記者はこの時首相自身も三国同盟に積極的ではなくなっていたという本音を聞き出していました。
しかし同盟締結の翌日近衛は首相官邸から三国同盟を支持する国民に向けてラジオで語りかけました。
この三国同盟によってイギリスアメリカとの関係悪化は決定的となります。
作られた国民の熱狂とともに日本は太平洋戦争への道に大きく踏み出す事になりました。
この熱狂は2か月後の紀元二千六百年式典でピークに達しました。
天皇陛下万歳!
(一同)万歳!一方1941年年頭に向けて発表された世論調査では6割の人々が「日米開戦は避けられる」と答えています。
世論とは一体何なのか。
誰もそれをつかめていませんでした。
10月日米交渉に行き詰まった近衛内閣は総辞職し陸軍の東条英機が首相に就任。
国内外には開戦近しの空気が強まります。
新聞紙面にも反米報道があふれ日米開戦へと世論がうごめき始めました。
こうした空気の中1941年12月1日御前会議において開戦が決定されます。
首相秘書官のメモにこの日の東条との車中でのやり取りが残されています。
このごろは総理に対して何をグズグズしているのかというような投書が多くなりました。
「東条は腰抜けだ」と言っているのだろう。
首相官邸に届いた投書は3,000通。
そのほとんどが日米開戦を求めていた
戦争へと向かう熱狂。
それが多数存在していたと思われる戦争を望まない人々の声をかき消していきました。
日本の舵取りを任された指導者たちは自分たちの行動に自信がないために世論を利用しようと思った。
世論の動向に一喜一憂した訳ですけれどもしかしその世論はメディアによって熱狂と化しておりました。
そしてその熱狂は最後の段階で日本人を戦争へと向かわせる一つの要因となりました。
本来ジャーナリズムの役割といいますのは世の中に起きているいろんな事象を的確に把握してチェックして国民が冷静な判断を下せるような材料を提供する事のはずでありました。
しかしこうして戦争を迎える時代のメディアの有り様を見てきて思う事はメディアがおかしくなれば国家はすぐにおかしくなるという事です。
本当に僅かな時間期間の中で国家の運命が狂わされてしまう。
そういう力をメディアは持っている。
その事を改めて突きつけられた思いでございます。
この日をメディア各社はどう迎えたのか。
ある新聞記者の日記です。
遺族が初めて公開してくれました。
「正午すぎ編集局内で臨時社員会議あり。
会長が宣戦の詔勅を奉読し聖上萬歳を三唱」。
「いま出たばかりの本社の号外を手にした人々が海軍の大成功を讃え合い物に酔うたように話している。
それを聞きつつ私はこの戦争の重大さを噛占めるように感じ直してみた。
得も言われぬ厳粛な気持ちになり熱涙が眼に溢れ出た」。
新聞記者だった武野武治さんは終戦の日報道の戦争責任を感じて辞表を出しました。
そしてふるさとに戻り今日まで個人でジャーナリストを続けています。
今の日本人は草食系男子なので来ないと思いますけど。
やっちゃいけないっていったってどうしたってやらなきゃ…ならなければやらなきゃいけない訳でしょ。
言論統制できないからかなり反対する人もいるだろうね。
あまりメディアに踊らされないようにしようかなと。
私は流されるだろうと思います。
戦争してしまったらもう終わりだと思いますけど。
子どものためにもそうはあってほしくないとは思うんですけどないとは言い切れないかな。
メディアや国民は軍など権力に従わざるをえなかった被害者とは言い切れない。
むしろ三者が同調して戦争への熱狂を駆り立て合ってあの悲惨な戦争に突入をしたという事ですね。
そうですね。
熱狂っていうのはどういうふうに作られていくのか。
そのメカニズムがある程度分かるんですが民衆が熱狂していくプロセスの中にですね民衆が自発的にすぐ動く訳じゃないんですね。
メディアが国の意見をあるいは国の見方をそのまま伝える。
更にそれを拡大して伝える。
でそれを一番最初に受け止めるのは例えば在郷軍人会とか極端なナショナリズムに傾斜している人たちですね。
その人たちが軸になってそれにこう拍手をし熱をかきたてていく。
で多くの国民はそのかきたてられていく熱の中に入ってくんですね。
そういう構図がよく見えたと思います。
現実にこの当時のメディアというのはどういう状況だったんでしょうか。
僕はねメディアのね本来の在り方考えなきゃいけないと思うんです。
一つにはですねメディアといっても一私企業ですから利益を上げなきゃいけない。
ですので事業体として新聞が拡大をしていくのには何が必要かと。
結果的にやはり国策を受け入れてそして国民にそれを伝える。
そして国民もまたそれを熱狂的に受け入れるっていう関係の中で新聞が読まれていくって事ですね。
はい。
一方で情報を受け取る国民民衆ですけれどもひとたび熱狂に火がつきますと信じられない速さ信じられないエネルギーで更に先へ先へと進んでいく訳ですよね。
ひと言で言うとね冷静さを失うって事ですね。
冷静さを失うという意味は例えば一つの情報に触れた時ですね比較対照する知恵といいますか理性といいますかそれが全部失われる訳ですね。
当然そういったものに疑問持たない。
でその情報にひたすら振り回されてそれでそれを自分の価値観の底に入れてく。
そうしますとね一つの方向性だけ固まってそういう価値観だけ受け入れてくとより強いものより強いものっていうの求めるんですね。
今度は戦争へと向かうメディアの状況を番組の中でもご紹介致しました信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々を通して見てみたいと思います。
桐生悠々昭和8年ですから太平洋戦争が始まる8年前に「関東防空大演習を嗤う」という批判記事を論説に書いてそれが不買運動という圧力を受けて退社を余儀なくされます。
退職したあと悠々は自ら雑誌を書きましてそこに論説をつづっていく訳ですけれどもその論説がこの「他山の石」というこの雑誌なんです。
これは1937年昭和12年日中戦争が始まった直後の「他山の石」なんですけれどもお分かりになりますでしょうか。
このようにですね空白の部分が目立つんですね。
そして最後にこのように書いているんです。
「日中戦争に関しては一切論及する事を許されないという通達があったので残念ながらこの全文を抹消する」という内容なんですね。
そして悠々はこの次の号の「他山の石」でこの通達そのものを掲載しているんですが…。
これ新聞班などがこういう禁止事項差止事項を出すんですけどねここで重要な事はですねここの「軍民離間ヲ招来セシムルガ如キ」とあるんですね。
軍部と民衆を引き離すような事をやってはいけないっていう事なんですね。
どういう事を書くと引き離す事になるのかっていうと「反戦又ハ反軍的言説ヲ為シ」という事ですから軍を批判する事は許さないよという事ですね。
同時に我々の国の国策というのはですね戦争というのを積極的に進める国家あるいは国民だというような印象を与えるあるいは国家の政策がですね侵略性を持ってるんだとそういう事を疑わせるような記事は書くなという事なんですね。
はい。
そしてもう一つこの通達の中で気になるところなんですけれどもこの「如キ」つまり何々のようなという表現ここでも3つ出てきてるんですけども…。
これは日本語の中で最も曖昧な言葉の一つだと思いますが「如キ」っていうのは誰が判断するの?「反戦又ハ反軍的」っていう記事を誰が判断するの?陸軍省の新聞班が判断するんですね。
「それは誰?」ってのはまだ30代か40代初めの少佐中佐ですよ。
そういう人たちが読んでこれは駄目だよっていうのはですね彼らの一存彼らのものの考え方の中に支配されてるっていう事で国家として見ればですねまことに情けない。
「如キ」というものは逆に言えば拡大解釈。
どこまで解釈しようがこっちの勝手ですよっていう事ですよね。
非常に危険な…。
危険な用語ですね。
しかしまあそれに一部の反発はあったんでしょうけども先ほどの番組の中でもいろいろ禁止事項があった方が苦心をせずに書く事ができて楽だという事を言ってましたね。
これはねジャーナリストっていうよりあるいは報道する側の送り手の姿勢としては送り手の考え方の基本的立場を放棄したっていう事ですね。
だから逆に言えば新聞が告知板。
あるいは国民を鼓舞するための激励の過大な表現を用いるメディアに変わってくっていう事ですね。
はい。
結局自分がそのようにその時の楽な道を選んだ事で自分の首を絞めて最終的には軍の望むもの出しなさいというものを伝えていくだけの存在になっていったと…。
そうですね。
国家の宣伝の役割を担う事がこの当時のジャーナリストの役割だと信じきってたんじゃないんですか?そして戦意を高揚させる。
いわゆる熱狂をあおっていくのは活字のメディアだけではなくラジオもそこに大きな役割を果たしていた訳ですね。
音声というものを感情を高揚させるメディアとして使っていきますよね。
アナウンサーの方が初めは…日中戦争が始まる前まではですね感情を出さないで原稿読みなさいあるいは伝えなさいっていうのが日中戦争が始まってからはできるだけ感情を入れて読みなさい。
戦況が日本軍が勝っていればうれしいでしょうからそのうれしさをもって読みなさいとかですねかなり感情を入れて読めという形になりますね。
そういったラジオに限らずメディア発達史というのは今日のようなフィルムの中では苦難の時なんですね。
この苦難の時に私たちは「こんな時代があったんだな」っていうふうにやり過ごす訳にいきませんね。
こういう時代はもう二度と来ちゃいけないし来ないだけの心構えっていうのはジャーナリストはみんな持ってると思いますけどね。
そういう教訓がここから学ばなければ私たちの歴史的遺産をね全く無駄にする事になるなあっていう感じがします。
そうですね。
まあ今回も軍そしてメディア国民誰もが300万人もの人が亡くなるこの戦いを本心から望んでいた訳ではなかったはずなんですがさまざまな状況つまり三者が駆り立て合った結果このような事態になってしまった。
これはもう本当に繰り返してはいけない歴史だと思うんですがそこから学ぶべきものメディアにとっても国民にとってもありますよね。
やはり今市民社会の中で市民的権利例えば私たちが知る権利というのは例えば今ここですぐ今生まれた子どもでさえも知る権利持ってる訳ですね。
その知る権利っていうのは今等しく国民全部が持ってる訳です。
しかし一人一人がですねそれぞれどこかへ行って何か全部調べる訳にいかない。
だから新聞や雑誌やテレビやラジオの報道する人たちに知る権利を託してる訳ですね。
だから報道する側がですね私が知る権利を持ってんじゃなくて国民が持ってる知る権利を代行してると。
その代行してる知る権利を果たすというのは私にとっての国民への義務であると。
この仕事を選んだ以上これが義務であるという覚悟がなきゃいけないですよね。
一方で受け手の側もやはり同じ過ちを繰り返さないために心していなければいけない事ありますね。
受け手の側はですね私たちが生きてく上にですねいろんな情報耳に入る訳ですけどもそれをこれは本当かな。
あるいはこれはどうしてこうなんだろう。
こういう見方もあるんじゃないかっていうような相対化する…。
比較ですね?ええ比較。
それから客観化する。
それを持たないとまた社会が一元的なね一つの枠の中でしか情報が流れなくなってしまうという怖い時代が来るんじゃないかと思いますね。
はい。
どうも今日はありがとうございました。
どうも失礼致しました。
2015/05/10(日) 13:50〜14:55
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(2)[字]

日本人はなぜ戦争へと向かったのか。それは軍部が一方的に推し進めただけではなかった。メディアと民衆も軍部と一体となって熱狂を作り上げていった。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】作家…保坂正康,【キャスター】森田美由紀
出演者
【ゲスト】作家…保坂正康,【キャスター】森田美由紀

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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