3日曜美術館「仏像をよみがえらせた男・新納忠之介」 2015.05.10


信仰の気持ちを込めて拝む仏像。
それは歴史を生き長らえてきた貴重な文化遺産でもあります。
その遺産を後世に残そうと無数の仏師たちが人知れず修理を行ってきました。
明治から昭和にかけて日本の名だたる仏像の修理を手掛けてきたのが…東大寺法華堂の本尊。
生きとし生けるものを救うという不空羂索観音。
微笑みの表情で名高い法隆寺の百済観音。
1,000本の手を持つ唐招提寺の千手観音。
新納は半世紀にわたりこれら国宝の修理を次々手がけます。
どのような修理を行ったのか新納は膨大な記録も残しました。
修理した箇所は全て図にして示しました。
また修理前や修理後の状態を写真に撮りました。
修理しそれを記録に残す新納の手法は今文化財修理に携わる美術院国宝修理所に受け継がれています。
仏像修理に生涯を捧げた新納忠之介。
新納が残した記録をもとに日本を代表する仏像がどのようによみがえったのかをたどります。
明治元年今の鹿児島県に生まれた新納忠之介は東京美術学校で高村光雲に師事し彫刻を学びました。
20代で助教授に抜てき。
気鋭の彫刻家だった新納が仏像修理の道に入る事になったのは一人の人物との出会いからでした。
東京美術学校の校長を経て日本美術院を創設した…天心は青年時代長年秘仏として人目に触れる事のなかった法隆寺の救世観音像に出会い大きく心を揺さぶられました。
以来古美術品の調査や保存に力を注ぎました。
そして日本美術院に国宝修理の部門を設けます。
天心がそのリーダーに据えたのが新納忠之介でした。
ある日天心は東大寺法華堂の仏像修理を持ちかけます。
法華堂には当時国宝に指定されていた14体の仏像が安置されていました。
全て天平時代を代表する至宝。
その修理を命じられたのです。
「そんなむつかしい仕事は到底私のような無経験な者にはできません」と答えると…いつになく激烈な口調で一喝。
三月堂のような大物を引き受けてもしうまくいかなかった場合には二度と奈良に足踏みができなくなる。
「うむ殺すつもりだ」…「そこまで先生が言われますなら」…東大寺最古の天平建築法華堂。
明治34年から岡倉天心の監督のもと新納はここで大がかりな仏像修理を手掛けました。
14体の仏像が並ぶ法華堂。
その本尊が中央に立つひときわ大きい不空羂索観音です。
像の高さ3メートル62センチ。
合掌する両手など合わせて8本の腕を持っています。
額には縦に第3の目があります。
全てを見通す仏眼です。
手には縄を持っています。
この羂索で全ての苦しむ人々を救い出すといいます。
不空羂索観音を取り囲むように日光月光菩薩をはじめ多聞天や増長天などの四天王が配置されています。
新納は天平時代特有の技法で造られたこれらの像を全て修理する事になったのです。
明日この天平彫刻は乾漆と塑像なのだがそのころはまだ専門に研究した人がいなかった。
どうして手をつけてよいやらまるで見当がつかない。
そこでまず本堂内に床を張りじっと座り込んでああでもないこうでもないと3か月の間考え込んだものだ」。
新納が悩んだのは不空羂索観音が「脱活乾漆」という特殊な技法で造られていたからです。
この技法はまず木の柱心木を立てそこに土を盛り付けて原型を作ります。
その上に粗い麻布を漆で貼ります。
大きな像では幾重にも重ねます。
乾いたあと一部を開け土を取り除きます。
中は空洞になります。
再び麻布を戻し周りに木の粉などを練り込んだ木屎漆を盛り付けて目鼻立ちを作ります。
そして最後に金箔などで仕上げます。
一般的には張り子の虎というようなイメージで捉える事ができます。
脆弱な材料で造られている仏像を修理するのは初めての経験です。
ですからどのように修理したらよいかあるいはどのように動かしたらよいか大変思い悩んだだろうと。
誰でもが思い悩む事ですけれどもその当事者としては大変な責任を感じただろうと思います。
新納は不空羂索観音を横倒しにして修理しようと考えました。
しかし内部が空洞の仏像。
体に縄をかければ壊れてしまう可能性がありました。
和風の手秤のような大きい釣台を作ってつり出したのであるが何しろ1,200年も経た乾漆や塑像の仏たちだからどの程度の力に耐えるものやら見当がつかず。
つり出したものを徐々に横倒しにしたんだが案外しっかりしていて心配したほどでもなかったのは何よりだった。
新納は修理の際文章や図や写真など詳細な修理記録を残しました。
天心の「修理は研究が肝心で職人になっては駄目だ」という教えを実践したのです。
奈良国立博物館には新納が残した7,000枚にも及ぶガラス乾板が残っています。
写真を撮るのは今とは比較にならないほど手間がかかる時代の貴重な記録です。
こちらがガラス乾板で東大寺の法華堂の不空羂索観音を修理した時の記録です。
不空羂索観音は全身像をはじめ像の背後にある光背や台座など合わせて22枚もの写真が残っています。
とりわけ多いのは宝冠です。
観音の頭上にある宝冠は天平工芸の粋を集めたものです。
銀の針金や透かし彫りした銀金具で造られ翡翠琥珀水晶真珠などまばゆい宝玉で彩られています。
「これほど見事な華麗な宝冠は他にない」と新納は言っています。
その宝冠が修理前には針金がグニャグニャに曲がるなどひどく破損していました。
それを新納は元どおりに直したのです。
これまで信仰の対象だった仏像を貴重な文化遺産として研究し修理する。
それが新納たちが行おうとした事でした。
仏像は元来仏様であって品物ではない。
しかし美術の上から言えば製作品には相違ない。
仏様として拝み美術品として味わう。
七分三分の兼ね合いが必要であろう。
新納の修理の方針はあくまで造られた当初の姿を最大限尊重したとえ欠損部分があっても原則として補足しない事でした。
これは「現状維持修理」と呼ばれています。
しかし信仰の対象として寺院などの要望があれば新たに補う事もしました。
不空羂索観音を取り巻く四天王の一つ多聞天。
修理前に撮られた写真を見ると足の下に踏みつけている邪鬼の頭部がありません。
しかし修理の際他の邪鬼を参考にしてその頭部が造られました。
今の像を見ると新たに補った事がはっきり分かります。
新納は後にこう記しています。
「東大寺の希望で仮頭部を造った」。
そして「あえて接合した継ぎ目が明らかになるようにした」。
「新たに補う場合もどこまでが当初の姿か分かるようにする」。
それが現状維持修理の姿勢でした。
欠けてしまってなくなっているところはねそれが信仰の対象としてどうしてもそこはないと困る場合とかあるいはそれをしないで傷んだままにしておくと将来そこから傷みが広がっていく危険があるっていう場合とかそういう時には欠けた部分を足す事はあります。
ただしそれは補足したのを分かんないようにきれいにしてしまうんではなくって美しさを損なわない範囲で修正をしてそしてその事は記録をきちんと残す事によって後世の人を誤らせないというね判断を誤らせないというそういう配慮もきちっと行っている。
明治38年から新納は法隆寺の仏像修理を手掛けます。
日本で最も有名な仏像の一つ百済観音。
一本のクスノキから彫られた飛鳥時代の仏像です。
像の高さはおよそ2メートル10センチ。
ほっそりとしたしなやかな体。
あどけない少女のような顔。
何かを受け止めるかのように優しく差し伸べられた右手。
左手は今にも落としそうなほど軽く瓶をつまんでいます。
この像はかすかに微笑んでいるかのような表情がたたえられてきました。
ある人は「おおらかな微笑み」と言いまた別の人は「無心そうな微笑み」と言いました。
しかし新納が感じた百済観音のすばらしさは別のところにありました。
この像はやはり古い時代のものでありますから前方から見て最もいい形となっております。
左の手をスーッと垂れていい具合に右の手にかかった帯がまた斜めに体に添うてスーッと垂れている。
その帯が下へ行って開いて勢いよくサッと流れている。
文字で言えば筆でスーッと書いたような心持ちです。
百済観音のどこをどう修理したのか一目で分かる図が残っています。
赤は補修した箇所。
顔や体は一部が手入れされています。
そして青は新たに付け足した箇所。
台座は部分的に補足されています。
こうした図が前後左右の4方向から描かれました。
後ろからの図で背中が全面的に補修されている事。
そして横から見た図で天衣と呼ばれる布の先が付け足されている事が分かります。
新納たちが編み出したこうした修理の図は今日まで引き継がれてきました。
図解だけで見て即座に補足箇所とそれから修理箇所が分ける事ができますんで。
まあ今今日修理をしたもんですけれどもやはりこういう同じ補足した部分は青で表すというような事で全く同じ明治38年と平成元年ぐらいのものですけど全く同じ方法で継承しております。
後に新納はこの百済観音の模造を作っています。
イギリスの大英博物館からの依頼でした。
「名品は模造を作って万一に備えるべきだ」という信念を持っていた新納。
早速制作に取り掛かりました。
百済観音はクスノキの一木彫である。
困っていると薩摩の島津さんの屋敷の裏山に立派なクスノキがたくさんあるからそれをあげようとのお話だ。
全く感激のうちに頂戴した。
樹齢300年の良材である。
どんな木でも樹齢100年を越すほどのものは既に木の精を宿していると僕は考えている。
300年の樹齢を保ってなお勢い盛んなお前ではあるが満足して切られてくれ。
やがてお前は観音様に生まれ変わるのだという意味のお祈りをした。
新納は鷲塚与三松と共に2体の全身像を造りました。
1体は今も大英博物館に飾られています。
百済観音の模造は日本ギャラリーの入り口に10年近く常設展示されてきました。
ガラスケースもなく間近に百済観音を見る事ができます。
実物と同じ大きさで同じような古色を帯びているため本物と見分けがつかないほどです。
大正5年から新納は唐招提寺金堂の仏像の大掛かりな修理に取り組みます。
金堂には向かって右に薬師如来中央には本尊の盧舎那仏そして左に千手観音が並びます。
この像は数ある千手観音の中でも文字どおり手が1,000本ある「真数千手」として古い歴史を持つ貴重な仏像です。
42本の大きな手。
仏法の力を発揮するさまざまな持物を持っています。
そしてそれらの間から湧き出るようにおびただしい数の小さな手が並んでいます。
苦しみを救ってくれる観音菩薩。
中でも1,000本の手を持つ千手観音はあの手この手でどんな事をしても救って下さるという仏像です。
普通に千手観音といっても実際に手が1,000本あるのは珍しく大抵略して42本にするとか光背に手を描いてあるとかが多いが唐招提寺の千手観音は文字どおりの千手さんである。
修理の時には1,000本の手を全部外してつけ直した。
これが至って難物で部分的に写真を撮っておいて後からこの写真に基づいてあの手この手と元どおりにつけていった。
奈良国立博物館に残る文章や図の修理記録は合わせて400冊。
その中でも唐招提寺の千手観音の図は膨大な数に上ります。
(宮崎)非常に細かくて丁寧であるという事とやはり後に参照するという事を十分に意識して正確な記録を残しているという事が読み取れると思います。
およそ265枚の図解がございます。
これらの図を主に描いたのは新納のもとで現場主任を務めた菅原大三郎です。
像を台座に固定するための足を修理する菅原たち。
足はシロアリに蝕まれ海綿のような状態でした。
そこで材木を補足し防腐防虫の措置を施しました。
そして1,000本にも及ぶ手。
これは42本ある大きな手の一つ。
手のひらを補修し3本の指が欠けていたのを新たに補った事が分かります。
大きな手が持つそれぞれの持物はその多くが欠損していました。
それらは皆新たに補われています。
大きな手の間に何層にも重ねられている無数の小さな手。
抜け落ち損傷しているものも多くありました。
小さな手は一つ一つ番号をつけて修理を施しました。
そして再び全てを元どおりに取り付けたのです。
腕を解体するわけですからその腕がどこにあったかどのように取り付けられていたか。
釘なりで留めるわけですけれどもその角度が決まっていますのでその腕が違う場所で取り付けられてしまうと違う角度になってしまうとかあるいは次の腕が留まらなくなってしまうとか。
元あった位置に留めないといけないと。
そういう事は大変だったんだと図面からうかがえます。
新納たちが修理してから80年。
再び千手観音をはじめとする唐招提寺金堂の仏像の修理が行われました。
千手観音の手がまた1本ずつ取り外されていきました。
所長になって藤本さんが初めて取り組んだ大修理。
平成12年に始まり完了したのは9年後でした。
新納が行った修理の手法を踏襲し発展させた平成の修理。
その過程は膨大な写真や図で再び克明に記録されました。
文化財いうのはやはりこういう木材とか乾漆漆とか彩色とかそういうようなもので脆弱になっていく宿命は持っておりますので。
やはり繰り返し繰り返し修理を重ねて健全な状態で後世に伝えなければなりませんので。
あと何年後かにまた修理があるでしょうけれどその時の参考には非常になると思います。
大正12年巨大地震が関東を襲いました。
死者行方不明者は10万人以上。
建長寺や鶴岡八幡宮など鎌倉の名だたる神社仏閣も甚大な被害を被りました。
その一つ円応寺は本堂が倒壊本尊をはじめ多くの像が壊れました。
鎌倉時代1250年に創建された由緒ある禅寺円応寺。
堂内には冥土で死者が出会う10人の王様十王像がずらりと並んでいます。
そして他の9人の王を従えるようにして中央にひときわ大きい閻魔大王が座っています。
大仏師運慶が造ったと伝えられています。
こちらの閻魔様運慶が突然亡くなってしまって閻魔様の前に引き出された時に「お前は物惜しみの罪が非常に深いから地獄行きなんだけどれも私の姿を彫りなさい」と言われて生き返らせてもらった。
それで運慶は喜んで笑いながら閻魔さんのお顔を彫ったのでどことなく笑っているように見えるという事から「笑い閻魔」というふうに言われています。
大震災の被害に遭った鎌倉の数多くの仏像を急きょ修理する事になったのは新納の右腕と言われた明珍恒男でした。
円応寺の閻魔大王も明珍が修理しました。
閻魔大王の首は切り離され胴体はばらばらに壊れていました。
いくつもの木材を寄せ集めた寄せ木造りの閻魔大王像。
修理図を見るとばらばらになった部材ごとに修理され再びつなぎ合わされた事が分かります。
修理直後の写真からもその継ぎ目を確認する事ができます。
明珍たちは大正13年から3年ほどで鎌倉の仏像の修理を終えました。
監督した新納は明珍の修理をこうたたえました。
堂宇の倒壊によって立派な国宝も木っ端みじんとなってかくなってしまった国宝の修理はいまだかつてない。
苦労づくめであっただろうがその難工事に直面する幸せを感謝しながら刻苦励精ついに完成を見るに至った。
徳富蘇峰さんこの修理を見て驚嘆され「明珍君は魔法師だ。
人間業で成したとも思えぬ」と大いに称賛された。
昭和6年新納は三十三間堂の仏像調査に取りかかります。
およそ120メートルの本堂に1,001体に及ぶ千手観音立像がびっしり立ち並び荘厳な雰囲気に覆われています。
新納は4人の助手を従えほぼ等身大の大きさの千体千手観音一体一体全てを写真に撮り損傷などを調査しました。
僕はあの堂内の一隅に立って見渡してみた。
まるで仏像の大津波が寄せてくるようではないか。
なんという大仕事であろう。
さしあたり南端の10体を堂脇に運び下ろしていちいち寸尺をあたり写真を撮影し調書を作ってみてさて改めて残る991体の大群を打ち眺めてみた。
あぁなんというばかばかしい仕事だ。
この調査はよほどばかでないかぎりやれる事ではない。
ままよばかになってみようと決心をした。
それ以来丸1年半明けても暮れても同じように観音様と取り組んだ。
長い生涯のうちあんな仕事をした事はまたとない。
全く夢のように思う。
新納の調査で撮影された写真が1,000枚以上残っています。
一体一体几帳面に正面から写された全身像。
見た目はほとんど同じに見えますが損傷の具合はそれぞれ皆違います。
江戸初期に修理されて以来この昭和の修理までに280年が経過していました。
そのため傷みはひどく目を覆うばかりだったといいます。
観音像の手や持物などさまざまな部分が脱落し床下に収められていました。
昭和11年から本格的な修理が始まります。
1年間に50体ずつ20年かけて修理を終える計画でした。
これは「第百号」と名付けられた千手観音。
1体につき3枚の図が描かれ修理箇所が示されました。
前。
後ろ。
そして光背と持物。
こうした図が全てにわたって描かれていったのです。
修理が始まった翌年昭和12年には日中戦争が勃発。
その後太平洋戦争に入っても修理は続けられました。
修理を担う人は徴用されたり召集されたりしました。
また資材もひっ迫してきました。
修理報告書にはこう記されています。
「必要な木材漆等の不足金属類統制は釘鎹に及び金箔ははるか遅れて入手される不便を繰り返した」。
年間50体の計画でしたが昭和20年度には20体昭和21年度には15体しか修理できませんでした。
金箔がどんどんなくなっていってそれで戦後にはねなんと進駐軍に対してね総司令部宛てに金の金箔のね使用許可を。
もうそういうものは制限されちゃってるね。
そういう苦労までしてますね。
若い仏師たちは兵隊に応召してそして帰ってこなかった人もいるけれども本当の美術院の機能からいうとうんと縮小してました。
ほんとに頑張ってきたと思います先輩たちが。
修理はほぼ当初の計画どおり20年後の昭和31年に終わりました。
戦中戦後の惨憺たる状況の中でも貴重な仏像の修理は途切れる事なく続けられたのです。
京都に美術院国宝修理所の工房があります。
ここでは再び昭和48年から三十三間堂千体千手観音の修理が行われています。
地道で丹念な作業が40年以上続けられてきました。
残すところあと100体ほど。
3年後には修理を終える予定です。
もう1,001体というのはほんとに宗教的な意味合いも無限大なんでしょうけれどそういう次の世代にまたずっと伝えていくいう事は無限大に修理を繰り返さなければならないんだなという…。
新納先生は革新的な修理法記録法とかいろいろなものを打ち立てて今日に伝えられている事は非常に偉大な事だと思っております。
新納忠之介は昭和29年85歳で亡くなりました。
手がけた仏像は2,000体以上。
まさに仏像修理に捧げた人生でした。
仏像を造る気持ちも修理する気持ちも立派なものを残したい一心で立派なものを造らねば御利益もないという信仰に立っている。
元来仏像はその人が仏様になって造ったもので誰が造ったかは実は問題ではない。
ある時は仏の皮をむきある時は閻魔の舌を抜いたがこれ皆国宝を保存し仏様に仕える気持からで我に不幸あらしめたもうなと合掌念願するしだいである。
2015/05/10(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「仏像をよみがえらせた男・新納忠之介」[字]

仏像修理に生涯をささげた男、新納(にいろ)忠之介。法隆寺の百済観音像など手がけた仏像は2千体以上。新納の記録を元に仏像修理の実際を紹介、新納忠之介の生涯を描く。

詳細情報
番組内容
仏像修理に生涯をささげた男、新納(にいろ)忠之介(明治元年〜昭和29年)。手がけた仏像は、2千体以上。法隆寺の百済観音像、東大寺の不空羂索観音像など、その多くが国宝である。修理の際、新納は膨大な写真や文書などの記録を残した。番組では、それら資料を元に日本を代表する仏像たちの修理の実際を紹介。仏像をよみがえらせるために、地道で丹念な努力を重ねた新納忠之介の生涯を描く。
出演者
【出演】美術院国宝修理所理事長…西川杏太郎,美術院国宝修理所所長…藤本青一,奈良国立博物館資料室長…宮崎幹子,奈良国立博物館名誉館員…鈴木喜博,円応寺住職…今井耕龍,【朗読】光岡湧太郎ほか

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
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