NHKスペシャル「総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜」 2015.05.09


千葉にある大学の研究室。
ここに沖縄の基地問題の原点を記した第一級の資料が眠っていました。
これ全部そうなんですけど。
ものすごい数の文書がありますんで。
段ボール箱100箱余り。
これまで明らかにされた事のない政府中枢の資料です。
「秘無期限」ですとか「極秘」ですとかそういうものがいろいろあってですね。
これ「主要な国際動向とわが国の立場」という「未定稿」って書かれてますね。
「総理大臣用」です。
「10部の内1号」というのを是非とも総理に見せて下さいっていう形であがってきたんだと思うんですね。
沖縄は本日祖国に復帰致しました。
日本国万歳!
(一同)万歳!万歳!
(一同)万歳!沖縄返還を果たした佐藤栄作総理大臣。
資料には佐藤政権による沖縄返還の全貌が記されていました。
この資料を残したのは佐藤の秘書官を務めた楠田實。
2003年に亡くなったあとこれらの資料が自宅で発見されました。
官邸で手にした資料のほぼ全てを残していた事が分かりました。
7年8か月にわたる戦後最長の政権を率いた佐藤。
その演説の原稿を書いていたのは元新聞記者の楠田でした。
佐藤の政治方針を言葉にしていく過程で沖縄返還に関わる政府中枢の情報が楠田のもとに集まっていたのです。
返還から40年余りがたった今も在日アメリカ軍基地施設の74%が集中する沖縄。
今やその部隊は日本の基地を足掛かりにアジア中東地域に広く展開しています。
沖縄の基地の在り方はどのように形づくられたのか。
それを知る重要な手がかりが楠田の資料の中にありました。
「沖縄返還記録」ですね。
首相官邸で行われた佐藤とアメリカ側密使の極秘の会談録。
沖縄の基地をめぐり重大な発言が書かれていました。
「米軍は日本本土の基地を使えば良いのだ。
その結果日本が戦争に捲き込まれても仕方ない」。
在日アメリカ軍基地の維持に関する重要な記録も残されていました。
官邸の内部で当時どのような判断がなされていたのか。
総理秘書官が見た沖縄返還の内幕です。
楠田の資料は千葉にある神田外語大学の研究室に非公開のまま保管されています。
和田純教授が膨大な資料と向き合う事になったのは12年前。
楠田が亡くなり遺族から託された時からです。
生前の楠田と和田教授。
楠田は長年のつきあいの和田教授に晩年資料の事を少しずつ明かし「沖縄返還の歴史を書きたいので手伝ってほしい」と伝えていました。
膨大な資料の中には楠田が晩年に語った言葉を録音したテープもありました。
沖縄返還には大きな4つの節目がありました。
佐藤が総理として戦後初めて沖縄を訪問する1965年。
日米首脳会談で2〜3年の間に返還の時期を決める事になった1967年。
それを受けて再び首脳会談が開かれ返還が大筋で合意された1969年。
そして返還が実現した1972年です。
この7年余りの間に官邸の中で何が決められたのか。
楠田の資料から新たな事実が明らかになったのです。
佐藤の総理就任直後楠田は「まず沖縄を訪問し沖縄返還を大きな政治課題にすべきだ」と進言していました。
「『これまでのオキナワの努力に報い現状を知るため1965年夏までにオキナワを訪問したい』との意向を表明すべきである」。
1965年は敗戦から20年がたった節目の年でした。
楠田は戦時中一兵士として中国戦線で戦い指を失うなど深い傷を負いました。
戦争で失った領土を取り戻したいという強い願いを楠田は後年語っていました。
楠田が進言したとおり総理に就任した佐藤は沖縄を訪問しました。
空港に降り立った直後総理として戦後初めて沖縄を訪問した事をうたう演説も楠田が用意していました。
これがその原稿です。
敗戦後アメリカに基地のための土地を接収され20年間その施政権下に置かれていた沖縄。
日本に復帰すれば基地は本土並みに縮小されると人々は期待しました。
佐藤は沖縄の各地を回り沖縄返還が大きな政治課題である事を内外に印象づけました。
しかしこの式典の直前演説にある文章が付け加えられていました。
今回その詳細が明らかになりました。
これが楠田が作った元の原稿。
これが最終原稿。
「決意であります」という言葉のあとのこの部分が加えられました。
アメリカの要請で軍事戦略上の沖縄の役割を重視する記述が加えられたのです。
領土を取り戻したい日本と極東の軍事拠点として沖縄の現状維持を求めるアメリカ。
両者の駆け引きはこの時から始まっていたのです。
1967年佐藤はアメリカで首脳会談を行いました。
佐藤は沖縄のアメリカ軍基地が極東で重要な役割を果たしていると認め返還の時期については2〜3年のうちに合意する事が決まりました。
しかしこの時ある問題が積み残されました。
当時沖縄には核兵器が配備されていました。
アメリカはそれを維持したいと日本側に求めていたのです。
沖縄の返還にあたって核のある基地をどうするのかが次の首脳会談での課題とされました。
日本には唯一の被爆国として反核の感情が根強くありました。
核兵器を持たず作らず持ち込ませずという非核三原則を佐藤自身が宣言しており核を残したままの返還を認められる状況ではありませんでした。
日米間で始まった核をめぐる攻防。
今後の交渉の難しさを予感させる出来事がありました。
沖縄返還の前哨戦とも言える小笠原諸島の返還交渉でした。
小笠原諸島の父島も太平洋戦争でアメリカの施政権下に置かれ核兵器の貯蔵施設として使われていました。
当時アメリカ大使館の書記官だったロドニー・アームストロング氏。
小笠原返還の交渉を担当した人物です。
アメリカのジョンソン大使と第2次佐藤内閣の外務大臣三木武夫との間で行われた交渉。
その最終盤である異変が起きたといいます。
今回の取材で明らかになった「極秘1部の内1号」の文書。
ほかにコピーがない事を意味するこの文書にアメリカとのやり取りが記されていました。
アメリカは緊急時には今後も父島に核兵器を持ち込みたい。
日本側もそれに理解を示してほしいと求めていました。
これに対し三木外務大臣は日本には非核三原則があり核兵器の持ち込みは許さないと抵抗を見せたのです。
結局核兵器の再持ち込みの議論は棚上げとされたまま小笠原諸島は返還。
沖縄でも核の撤去を強く求めた場合アメリカはどう出てくるのか不透明な事態となりました。
内閣総理大臣佐藤栄作君。
核抜きで沖縄返還は実現できるのか。
野党からの追及に佐藤はこのころまだ決まっていないという答弁を繰り返していました。
このころの佐藤の苦境を楠田は後年こう振り返っていました。
核をめぐる交渉の落としどころはどこにあるのか。
この時佐藤がアメリカの真意を自ら探ろうとしていた事が楠田の資料から初めて明らかになりました。
佐藤は事態を打開するためあるアメリカ人とひそかに会談を重ねていたのです。
アメリカからハリー・カーンという男が来て佐藤総理と会談した時のその会談録を官邸で書き取ったものですけれども。
ここに書いてありますね。
これも白丸が総理で黒丸がカーンでという事でやり取りが書いてありまして。
小笠原諸島が返還された年の12月9日午後4時半。
会談は佐藤の公式上の面会が全て終わったあとに行われました。
アメリカの核の傘で守られている日本の現実。
それでも沖縄の核兵器の撤去をアメリカに求めるべきか。
佐藤はカーンという男を前に迷っている心の内を語り始めました。
佐藤の告白を聞いた会談の相手ハリー・カーン。
当時ニクソン大統領に通じていた人物です。
ダレス元CIA長官とも親しく日米の政界に太いパイプを持っていました。
占領期日本の再軍備に関わり日本が独立したあとも日米の政治家をつなぐ活動を続けていました。
カーンは佐藤に緊張が続く朝鮮半島をにらんで核のある沖縄の基地の重要性を説きました。
沖縄の基地の目的。
カーンはそれを「朝鮮半島の有事のため」と明白に語りました。
しかしそのために沖縄の核を維持する事は佐藤には受け入れ難い事でした。
佐藤はカーンに当時大統領選挙に勝利したばかりのニクソンに直接コンタクトが取れないか切り出しました。
佐藤は兄の岸信介元総理をニクソンのもとに派遣し核抜き返還の可能性を探れないか打診したのです。
年が明けた1969年。
佐藤は次の首脳会談を控えた山場の年を迎えました。
交渉で「核抜き」を求めるのか「核つき」の返還でもよいとするのか。
大きな政治問題となって政権に突きつけられていました。
楠田も佐藤も核についてのアメリカの真意を早く知る必要に迫られていました。
1月。
ニクソンからの親書が佐藤のもとに届いていた事が楠田の資料から分かりました。
直筆でメッセージが書き添えられていました。
兄岸元総理との会談を確約する内容でした。
親書が届いた直後の2月。
カーンが再び佐藤のもとに現れていた事が明らかになりました。
この2つですね。
68年の段階ではこの「ハリー・F・カーンとの会談録」とちゃんとタイトルが付いてたのがもう「ある外国人との対話」になっている。
つまりこの文書の方はそれだけ中身が非常に機微にわたるものになってきたという事だと思いますが。
カーンと佐藤の2回目の会談は沖縄の核と基地について突っ込んだ話となりました。
沖縄の核をめぐって意見を交わす佐藤とカーン。
話は朝鮮半島の有事の問題に及びました。
佐藤はカーンに重大な提案をしていました。
佐藤は沖縄の核の撤去を求める代わりに朝鮮半島での有事では本土の基地も含めて活用できるとこれまでにない提案をしたのです。
「日米安保条約があるために日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないか」。
野党からの追及に対し当時佐藤はこう答弁していました。
これまでの国会答弁よりも踏み込んだ提案をし沖縄返還を実現しようとした佐藤。
楠田はこの時の事を興奮気味に日記に記していました。
「沖縄は核抜き本土並み」。
「但し朝鮮半島でことが起こったら本土基地を使わせる。
その際日本が戦争へ巻きこまれてもやむをえないというもの」。
「これではっきりした」。
カーンとの会談を経て方針を固めた佐藤。
その10日後国会で初めて沖縄の核抜き返還をアメリカに求めると発言したのです。
しかしアメリカ側の要望はとどまる事はありませんでした。
その後外務省がアメリカ側と激しい交渉を繰り返していた事も楠田の資料から分かりました。
外務省の担当者から官邸に直接あげさせた報告書。
アメリカが沖縄の核兵器の維持よりもアジアに広く展開できる作戦行動の自由に重点を移していると報告していました。
当時アメリカはベトナム戦争のただなかにあり爆撃機の発進基地として沖縄の重要性は高まっていました。
沖縄の基地は朝鮮半島などをにらむだけでなくベトナムにも展開する重要な役割を担いつつあったのです。
返還交渉の中でのアメリカ側の発言です。
「沖縄に対する米国の投資はばく大なものである。
あれほど金を使って施設を整備し軍隊を駐留させながらいざという場合に極東のほかの地域にある米軍を助けに行けないというのでは議会や米国民に対して説明がつかない」。
このころの外務省の内部文書です。
アジア各地に自由に出撃できるよう求めるアメリカへの警戒感がつづられていました。
「米軍のいる地域という事になりますと朝鮮半島およびベトナムにとどまらずフィリピンタイあるいは台湾も入ってくる。
いくらでも広がるではないかという事にもなろうかと思われます」。
こうした報告を楠田たちにあげていたのはアメリカとの交渉を担当する…なぜ千葉課長はアメリカの思惑に警鐘を鳴らしていたのか。
北米一課だろうと思います。
同じく外交官として働いてきた…生前の父親から戦時中の体験をしばしば聞かされたといいます。
千葉課長は英語の能力を買われ海軍でアメリカ軍の無線の傍受を任されていました。
その時に聞いたのが沖縄を攻撃するアメリカ軍の無線でした。
これがパスポートです。
千葉課長が沖縄に行く時に使っていた公用の渡航証です。
20回近く沖縄を訪れ住民から基地の縮小を求める請願を受けていました。
(恵子)もう随分何回も行ってますよね。
(取材者)全部那覇ですか?
(恵子)全部那覇ですよ。
自らの戦争体験と沖縄の声が千葉課長の原動力となっていました。
楠田のもとに届けられていた千葉課長の報告。
同じ戦争の体験に根ざした危機感が官邸と外務省の間で共有されていました。
沖縄返還協定の調印式が開始されます。
1971年。
熾烈な外交交渉を経て沖縄返還協定の調印式が行われる事になりました。

(「君が代」)式典の会場には楠田と千葉課長の姿もありました。
戦争で失った領土を交渉で取り戻した戦後最大の外交的成果。
一方で安全保障の在り方についてはさまざまな事が決まりました。
アメリカ軍は沖縄に配備された核兵器を撤去。
そして朝鮮半島の有事には本土の基地も使えるようになり更に情勢次第では台湾やベトナムについても対応できる事が確認されました。
沖縄の基地の在り方がこの時決まったのです。
返還の当日日米両政府が交わした基地使用に関する覚書です。
沖縄88か所の基地のほとんどが返還前と同様期限を定めず使えるという取り決めがなされていました。
1972年。
佐藤内閣は沖縄返還を花道に退陣しました。
返還費用をめぐる負担や有事の際核を再び持ち込む密約。
沖縄返還は後に複雑な政治判断の積み重ねだった事が明らかになっています。
後年楠田は交渉のさなか佐藤が周囲に漏らした苦悩の言葉を語っていました。
戦後日本の悲願だった沖縄返還。
楠田の残した資料はその光と影を浮かび上がらせています。
その後も政界とのパイプを持ち続けた楠田。
資料に再び「沖縄」が現れるのは返還から20年後。
特に1995年から日記に記述が増えていました。
この年沖縄では少女が複数のアメリカ兵に暴行を受ける事件が起きました。
沖縄では反基地運動がかつてない高まりを見せました。
私たちに静かな沖縄を返して下さい。
軍隊のない悲劇のない平和な島を返して下さい。
この事件をきっかけに当時の橋本内閣とアメリカとの間で普天間基地の返還が合意されました。
沖縄の負担を軽減するチャンスが訪れたのです。
この時楠田は佐藤政権以来となる活動を始めました。
沖縄の基地問題に関する提言をしようと有識者を集め意見を聞いていたのです。
橋本内閣のブレーンだった下河辺淳元国土事務次官のほか一流の学者を集めました。
その時のテープ。
有識者の意見は基地の負担軽減よりも沖縄の戦略的重要性に重点を置いていました。
有識者が語る本土から見た沖縄。
楠田がこれらの意見を基に政府に提言したという記録は残されていません。
楠田はこの時何を考えていたのか。
(和田)これは楠田さんが書かれたものを全部集めたものなんですけれども。
当時の考えをつづった数少ない手記が見つかりました。
沖縄の問題を日本人全体に問いかける文章から始まっていました。
このあと楠田は沖縄の歴史を振り返りながら更に問いかけています。
そして当時の沖縄の状況を記し文章を結んでいました。
2003年楠田實は亡くなりました。
沖縄返還の歴史を書く事なく膨大な資料だけが残されました。
それを基に何を伝えようとしていたのか。
戦後最大の政治課題として実現に至った沖縄返還。
問題はそれで終わったと言えるのか。
総理秘書官が残した資料はその後40年余り変わらない沖縄の問題を私たちに問いかけています。
きちんとお座りしている犬のリリちゃん。
でもちょっと眠そう。
おっとっと…。
2015/05/09(土) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「総理秘書官が見た沖縄返還〜発掘資料が語る内幕〜」[字]

アメリカからの沖縄返還を実現した佐藤栄作元総理。この歴史的交渉を間近で見た秘書官の資料が見つかった。現在の基地問題や日米関係へとつながる、沖縄返還の実像に迫る。

詳細情報
番組内容
1972年にアメリカからの沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作元総理大臣。この歴史的交渉を間近で見た総理秘書官が残した資料が見つかった。段ボール100箱以上にのぼる、官邸中枢の膨大な記録。佐藤政権は、沖縄返還をどのようにして成し遂げたのか。そしてアメリカ政府との間で、どのような駆け引きがあったのか。現在の基地問題や日米関係へとつながる、戦後日本の転換点、沖縄返還をめぐる政権中枢の決定とその過程に迫る。
出演者
【語り】石澤典夫

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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