ファミリーヒストリー「間寛平〜2人の父の真実 母の秘めた思い〜」 2015.05.08


最初の大関になりたいと、話しているんですね。
先っちょビーム!65歳。
今年芸歴46年目を迎える。
(歓声と拍手)個性的なギャグで子供からお年寄りまで圧倒的な人気を誇るベテラン芸人だ。
寛平には子供の頃から心の奥に秘めた思いがあった。
それは会った事のない父親の存在。
実の父岡村時市は寛平が生まれる1か月前23歳の若さでこの世を去った。
その後母親は再婚し新しい父親となったのが間幸一。
寛平がこの事実を初めて知ったのは12歳の時だった。
(取材者)全く?はい。
番組では本人に代わって家族の歴史を取材した。
初めて知る父時市の青春の日々。
何を言うがかっ!そして寛平を実の息子のように愛した育ての父。
浮かび上がったのは…取材の結果を伝える時が来た。
間寛平は初めて家族の歴史と向き合う事になる。

(テーマ音楽)間寛平さんのルーツをたどる旅。
向かったのは寛平さんのふるさと高知県宿毛市。
同行してくれたのは…寛平の実の父親岡村時市。
23歳の若さで亡くなりました。
再婚後亡くなった時市の事は胸にしまい触れないようにしてきた美稲子さん。
あえてふるさとにも帰る事をしませんでした。
美稲子さんと時市は山深い宿毛市の最北端愛媛県との県境にある集落出井で生まれ育ちました。
ああ懐かしいけどでも学校は変わってるからな。
山道を1時間以上歩きこの学校へ通いました。
美稲子さんに会いたいという人が待っていました。
あの…日下三津です。
あなたにお裁縫を教えていた…。
あの日下先生?今言うてた先生やがな。
そうそうそう!今言うてた先生。
ありがとうございます。
70年ぶり…。
当時崎山さんは小学校で裁縫を教えていました。
あ〜茂文さん?崎山さんは美稲子さんの写真を大切に持っています。
14歳の時の美稲子さんです。
青春の思い出が詰まった学校。
ここは時市に結婚を申し込まれた場所でもありました。
寛平が会う事のかなわなかった父親岡村時市。
その人生をたどっていきます。
大正15年時市は出井で炭焼きなど山仕事をなりわいとする家に生まれました。
生きていれば今年89歳になる時市。
時市の小学校時代を知る人が見つかりました。
出井の隣の集落に暮らしている伊吹さん。
時市との印象深い思い出があります。
また今日も俺の勝ちじゃ!走る事が何より好きだったという時市。
目指すのはいつも一番でした。
そんな時市の生まれた岡村家には驚きの歴史がありました。
出井には古くから「岡村様」と呼ばれる墓がいくつもあります。
代々先祖の墓を守ってきたのは…時市の家は文雄さんの家の分家に当たります。
父親が昔の事を覚えているかもしれないと案内してくれました。
ご先祖様はどこから来たかいうのを聞いとるやろか?岡村家はどんな家だったのか郷土史家に墓の調査をしてもらいました。
墓石の拓本をとり文字を浮かび上がらせます。
合計18の墓の拓本をとってもらいました。
手がかりとなる一人の人物の名が見つかりました。
「岡村浅右衛門」。
江戸時代中期を生きた岡村浅右衛門。
浅右衛門が出井の庄屋だったという記録です。
岡村家はこの地で代々庄屋を務めていました。
しかし明治のころ一族の一人が放蕩を重ね土地を失い出井で一番貧しい家となったのです。
15歳となった時市は家計を助けるため現在の四万十市にあった営林署に就職します。
(一同)せ〜のよいしょ!切り出した木材の量から給料を計算するのが時市の仕事でした。
仕事熱心な時市は周囲が驚くほどそろばんを上達させました。
時市の4つ下の弟春美さんです。
春美さんの家には若き日の時市の写真が数多く残されています。
貧しい生活から抜け出したかった時市。
18歳の時ある決断をします。
当時ミッドウェー海戦で大敗し海軍は兵士力不足から志願兵の募集に力を入れていました。
時市は海軍に志願したのです。
昭和20年5月時市は佐世保の海兵団に入団します。
しかし敗色が濃厚となる中時市を待っていたのは連日の塹壕掘りと過酷なしごきでした。
あっ!間もなく時市は結核を患います。
終戦を迎えたのは入院先でした。
2年ぶりの帰郷を果たした時市。
体調を取り戻してからは自転車で衣料品の行商を始めます。
このころ時市が楽しみにしていたのは小学校を借りて行う青年団の演芸会でした。
それぞれが得意の歌や芝居を披露しました。
ああそう!この歌この歌!それが聞こえてくるから勉強にならないのよ。
当時カツ子さんは時市ら青年団が集まった小学校に通っていました。
時市にいさん歌ってたなぁ。
時市の参加していた青年団には二人のマドンナがいました。
村一番の美人和歌子と村一番の秀才美稲子。
時市さんが美稲子さんにアタックしよるとこ私ら見たんですよ。
その時分に二人で向き合って美稲子さんがちょっとうつむきかげんやったら時市さんアタックしよるなみたいな。
「時市が好きなのは美人の和歌子ちゃん」。
そう思い込んでいた美稲子は半信半疑でした。
(取材者)そう言われたらうれしかった…?美稲子ねえさんが出井という村では一番賢いとか…。
高根の花で普通の他の人やったら手が届かないいう。
時市さんはその一番のものを欲しかったんです。
そして終戦から3年後二人は結婚。
時市22歳美稲子19歳。
若い二人の新しい人生が始まろうとしていました。
結婚後時市は家族を養うため印刷屋で働き始めます。
程なくして美稲子に子供が授かりました。
(美稲子)喜んでましたね。
「男の子かな?女の子かな?」って言うてましたわ。
で「俺男の子がいいけど」とかいうていうてましたけどね。
ところがある日自転車で注文取りに回っていた時市が突然倒れます。
結核の再発でした。
この時既に深刻な病状でした。
時市は小屋に隔離されます。
閉ざされた小屋で身重の美稲子はひたすら看病に明け暮れました。
やっぱり肺病いうたらうつる伝染するいう先入観があるんやね。
容体が悪化していく中美稲子は意を決して時市にこう告げます。
この子供は…私がおろそうか?と言うたんですよ。
あの子の事をね。
にいさんが元気になったら子供はまたできるやない言うて。
だからこの子はなおろそうかと言うたらその人が怒って「俺が死ぬとでも思ってるんか?」言うて。
「俺絶対死なせん」。
「子供は絶対に産むんだ」。
時市の剣幕はすさまじいものでした。
当時結核の治療薬とされていたペニシリン。
しかし注射1本が大卒の初任給を超えるほど高価な薬でした。
時市の兄嫁カヨコさん。
借金を重ね薬を手に入れた岡村家の困窮ぶりは大変なものでした。
時市さんに…そんなね涙見せたらいけないとか思ったから「頑張らないかんで頑張らないかんで」言うて。
「もう赤ちゃん動いてるよ」とか言ってね。
この子の顔見たいなぁ。
ええかや?この子は絶対里子に出したらいかん。
絶対うちで育ててほしい。
お前とわしとの約束じゃ。
しっかり育ててほしい。
そして6月22日の朝時市は息を引き取りました。
23歳の若さでした。
美稲子さんは66年前時市が亡くなった場所を訪ねました。
ここに時市が隔離され最期を迎えた小屋がありました。
今なあこの年になって…。
二十歳の若さで美稲子は夫を失いました。
その僅か1か月後。
(赤ん坊の泣き声)重美後の寛平が生まれました。
重美を背負い美稲子は山の中にあった時市の墓に来る日も来る日も通い続けました。
(美稲子)あの子おんぶして「男の子生まれたよ」言うて。
言いましたねお墓の前でね。
でも「何で私を捨てて一人でいったの?」とかねそういう事一人でようしゃべりましたね。
会えるっていう気持ちで。
会えるからって言いました。
つらかったでしょうねそんな時は。
泣いてましたよもうお墓の前でねうずくまりましたもん。
だから私も心配してねやっぱりついていきましたね夜中でも。
美稲子は出井の小さな家で赤ん坊と二人暮らし始めます。
日中田畑で働いたあと夜なべして木炭を束ねる縄をないました。
時市の死から4年。
重美はすくすくと育っていました。
このころ重美のお気に入りは車のおもちゃでした。
届けてくれる人がいたのです。
その人は…木材の切り出しの仕事をしていた幸一は評判の働き者でした。
「人柄のよい人だから」。
美稲子は近所の人から幸一を紹介されたのです。
穏やかで優しく何より重美をかわいがってくれる幸一。
美稲子は次第にひかれていきます。
そして再婚が決まった時幸一は美稲子に一つだけ頼み事をしました。
「俺とずっと暮らしてくれるつもりがあるんだったら時市さんの事はもう忘れてくれ」と言われてそれで「分かった」というんで写真を全部剥がしましたわ。
だからもうできるだけ時市さんの事は言ってはいけないから思って…。
美稲子はアルバムから全ての写真を剥がし時市の弟春美のもとへと届けました。
これはその時美稲子が時市の写真を剥がしたアルバムです。
幸一との約束を生涯守るための決意の証しでした。
昭和29年再婚した美稲子は宇和島に移り新しい暮らしを始めます。
幸一は木材の切り出しや炭焼きで家計を支えました。
美稲子さんは50年ぶりにかつて暮らした場所を訪ねます。
(美稲子)みっちゃんあれでしょうびっくりするやろこんな山奥で。
へえいや〜懐かしい!山深いこの場所に一家3人が暮らした借家がありました。
当時使っていた風呂釜が残っていました。
(美稲子)もっと水が流れてたみたいな感じするけどな。
この小川で毎日野菜を洗いました。
再婚の1年後弟健一が生まれ家族は4人となります。
あらこんにちは。
当時美稲子たちが暮らしていた借家の大家さんが元気に暮らしていました。
耳が遠なってな話ができんのよ残念な事やけんど。
ほんと…かまどで御飯炊いてましたもんね。
あのなんかいちごをとってきて?重美が欲しがっていた「いちごたんぽろ」。
誰よりも大きなものを作ってくれました。
周囲も重美自身も幸一を実の父親と信じ疑う事すらありませんでした。
しかし炭の需要が減るにつれ幸一の仕事は激減。
重美が12歳の時一家は大阪へ移り住む事になりました。
その時美稲子が重美に告げた事があります。
岡村のおじいちゃんおばあちゃんが…。
「あのおじいちゃんおばあちゃんにも挨拶していきや」って言うて「何でやろう?」と思ってたんですよ。
やがて重美は亡くなった父時市の存在を知ります。
しかし育ててくれた幸一を思い決して口にする事はありませんでした。
おやじはほんともう全く怒らない。
手を僕かけられた事ないですよ。
おふくろはバーンとたたいたりしてたけど。
そんなんがあっておやじも…もう中学高校となっていた…。
おやじも気遣ってるのかなとかずっとそう思ってましたね。
昭和36年一家は造船の町だった大阪住之江区に移り住みます。
「日本の造船は戦後最高の好景気に恵まれ…」。
このころ造船ブームにわき立っていました。
幸一は造船所の下請け工場で職を得ます。
初めての都会暮らしに慣れぬ中家族のために懸命に働きました。
こんな写真初めて見たな。
(健一)関西風のお好み…。
幸一の息子重美の弟健一さんです。
おやじの気持ちですよね?おやじの…。
複雑だったかも分かりませんねその当時っていうのは…。
兄貴がその時に知って「自分のお父さんじゃない」って自分が思われた時に重美はどう思うんだろうっていう不安はあったかも分かりませんね。
(取材者)どの段階で「あほんとに重美の父になれたな」って自信を持たれるようになったんですかね?自信はね多分ずっとなかったと思いますよ。
やっぱ持ってないDNAというのが何となく感じてたんでしょうね。
大阪の暮らしに溶け込み奔放に成長していく重美。
何をしても穏やかな幸一が繰り返し重美に語っていた教えがありました。
その教えに忠実にでもちょっと好きにやりすぎた重美。
さまざまな職を転々とします。
そして19歳の時突然宣言しました。
美稲子は大反対。
幸一はただ黙っていました。
重美に語った幸一の教えには続きがありました。
重美は芸人養成所の研究生となり付き人を経て21歳でデビューを果たします。
芸名は…本名の「間」の姓を付けました。
・「きょうもまた」レコードデビューまでします。
・「オーッひらけひらけ」・「パッとひらけ!」・「チューリップ」ふだんは控えめな幸一がこの時は違った事を覚えています。
(拍手)「それでは次参りましょう」。
「間寛平チームです。
どうぞ」。
「はいどうぞ!」。
家族で参加した歌合戦。
・「赤いネオンに身をまかせ」・「燃えて花咲くアカシアの」朗々と歌い上げる寛平の後に続く幸一。
・「高知のはりまや橋で」歌は苦手でも寛平とステージに立てた事を喜んでいたといいます。
順風満帆だった寛平。
しかし気付かぬ間にとんでもない事態に陥っていました。
保証人として引き受けた借金が2,500万円以上降りかかってきたのです。
デビューしてせっかく買った家も売却。
それでも借金は返済しきれず窮地に追い込まれます。
そんな時寛平は不思議な夢を見ました。
以降マラソンは寛平のトレードマークとなり仕事の幅は広がっていきます。
ブラウン管の中走る寛平の姿を懐かしく見ている人がいました。
80を過ぎたころ幸一は入退院を繰り返すようになっていました。
当時幸一を担当した看護師の吉村さん。
点滴の針を自分で抜いてしまった時おちゃめだった幸一が印象に残っています。
「ごめんごめん」って言った時に「ギャグやってくれたら許したる」という感じで冗談で言いあった時にギャグされてました。
アメマだけでしたけど私の時は。
(取材者)どんな感じですか?ニコニコ笑いながらアメマって言って。
それやったらあかんと言ったらもう一個かい〜のしてくれたんですけど。
でもその時は体があんまり…。
お膝も悪かったので上手には動かなかったですけどまあまあ言葉で…。
肺を患っていた幸一は話す事も起き上がる事もできぬほど容体を悪化させていきます。
それでも寛平が訪れれば元気な姿を見せようとしていました。
仲の良い二人の様子を見て吉村さんは実の親子だと思っていました。
「寛平さんの面白いのはお父さんに似てるんかな」みたいな感じで私がお話したら「血はつながってへんけどな」みたいな感じで…。
「似てるって血つながってないんやで」みたいな感じで「どや!」みたいな感じやったんで。
やっぱり自信なんですかね。
「分からんかったやろ?」というような言葉がついてきそうな表情だったので…。
(取材者)何に対する自信ですか?何に対する自信…。
血のつながりより深い絆という感じですかね。
そして平成24年幸一は82年の人生を閉じます。
最期まで体にまとっていたのは寛平から贈られた肌掛け。
車椅子に乗る時もいつも手放さなかったといいます。
一面に施された5つの文字。
「ありがとう」。
それは幸一の思いとも重なっていました。
おやじはほんとに兄貴ですごいよかったと思ってると思いますね。
田舎もんの炭焼きやってたおっさんが大都会の大阪に出てきてほんとに造船所で下請けの下請けやってもう細々と暮らしてほんで終わりやって思ったのがね自分の息子がここまで有名になったんやと。
これほどうれしい事はないやないかという思いだと思いますよ。
(取材者)しかも「間」という…。
名前を普通に呼んでくれるようになって世間の人々が。
「かん」とか「『ま』さん」とか言われてたのがちゃんと「はざま」って呼んでくれるようになったわって。
だから自分の息子であり時市さんの息子でありほんとにそういう息子を与えてくれた前のお父さんに感謝してると思いますね。
今思いますね。
時市さんはいい人残してくれたなって。
いい宝を残してくれたなって。
一人ではね一人がいるとねそう言うてますよ。
「守ってくれてありがとう」とかね。
時市さんはずっと向こうだけど戒名は覚えてるからその戒名を言って「ありがとう」とかね。
そして今美稲子さんが毎日語りかけるのは二人の写真。
それは寛平の二人の父親。
2008年寛平さんは地球を1周する過酷なアースマラソンに挑みました。
厳しい自然と体力の限界。
苦しい時語りかけたのは自分が生まれる前に亡くなった父でした。
がんを宣告されマラソンを中断した時寛平さんの無事を祈る人たちがいました。
時市の弟春美さん夫婦です。
出発して749日目。
ようやく日本へ戻ってきた寛平さんを待っていたのは母美稲子さんでした。
帰ってきたで…。
(拍手)そして寛平さんは美稲子さんにこんな言葉を贈りました。
ふるさと出井では今道路工事が始まっています。
山深いこの地で地震や災害に備えた2車線道路の建設です。
道の名は「かんぺいロード」。
発起人の中心メンバーは親戚に当たる岡村政治さんです。
誇らしい思いでこの名を付けました。
ここ上がっていくのは…。
旅の終わり美稲子さんが訪れたのは時市のお墓。
別れてからの歳月ずっとこの戒名を心の中で唱えてきました。
おじいちゃんと走る事が大好きという元気な男の子です。
時市が守り幸一が育てた命。
二人の父の思いはしっかりと受け継がれています。
なんか…2015/05/08(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「間寛平〜2人の父の真実 母の秘めた思い〜」[字]

寛平さんには、生まれる前に亡くなった父がいる。これまで、育ての父に申し訳なくて、知ろうとしなかった。それが今回、その実の父の人生が明らかに。家族の真実に涙する。

詳細情報
番組内容
寛平さんには、生まれる前に亡くなった父がいる。母が再婚した後、育ての父に申し訳なくて、実の父のことを知ろうとしなかった。それが今回、実の父の人生が明らかになる。同時に、我が子同然に育ててくれた育ての父の深い愛も浮かび上がる。そして、今回の番組で、亡くなった2人の夫との過去をたどることになった母。悲しみを乗り越え、強く生きた歳月を思い出し、涙をこぼした。コメディアン間寛平、誕生に隠された家族の物語。
出演者
【出演】間寛平,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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