ファミリーヒストリー「伊達みきお〜伊達の名に誓った覚悟とは〜」 2015.05.08


「みきおさんと出会ったのは親友のユッキーがワッキーと知り合いワッキーの紹介でベッキーを知りジャッキーとマッキーとロッキーでキャンプに行った時にユッキーとマッキーが新橋のエッキーでウィッキーさんに…」。
もう分かんねえわ!お笑いコンビサンドウィッチマンの伊達みきおさん。
漫才やコントの絶妙なツッコミで人気を博しています。
あの卒業アルバムとかさ昔の彼女の思い出の写真とかまあ思い出がいっぱい入ってんだよね。
ちょっと何言ってるか分からない。
何で何言ってるか分からないの。
なあ。
思い出がいっぱい詰まってんの!17年前芸人を目指して仙台から上京する時父親から「伊達の名前を使うな」と言われました。
特にうちのおやじは厳しかったもんですから堅いおやじで…。
「そのまま伊達でやんのか」という事は言われた気がしますね。
その厳しい父親から高校生の時に渡されたものがあります。
伊達家の家系図です。
ちなみに有名な独眼竜政宗はこれですね。
独眼竜で有名なあの戦国武将伊達政宗につながる家系だというのです。
「伊達の名を汚すな」みたいなね。
伊達政宗と言えば誰もが知ってる武将だったりするわけですよね。
その方と同じ名字っていうのは…しかも同じ仙台で。
だからより深く知りたいですね。
全く関係なかったとしても。
全く関係なかったらびっくりしますけどねほんとに。
番組では伊達さんの知らない家族の歴史を取材しました。
浮かび上がったのは伊達の名を守ろうと生きた一族の姿でした。
戊辰戦争で伊達家の命運を託された祖先。
東京帝国大学を出て旧満州に渡った祖父を待ち受けていた苦難。
残された手記にはソ連軍の侵攻によって捕虜となりシベリアに送られた体験が記されていました。
夫と引き裂かれた祖母。
もともとは仙台屈指の名家の出。
2人の幼子を連れ満州から引き揚げてきました。
東北の地で脈々と受け継がれてきた伊達家の誇り。
そしてあの大震災。
ふるさとの地に誓った覚悟がありました。
おっしゃ行こう!伝えていかなくちゃいけない人間としては使命のような事を感じたりはしてますね。
お願いします。
取材の結果を伝える日伊達みきおさんは自らのルーツと向き合う事になります。
丸裸ですよね僕が今からね。
僕のというか僕の歴史が。
すごい楽しみです。
伊達みきおのふるさと宮城県仙台市。
この町に城を築いたのが戦国武将独眼竜で知られる伊達政宗。
伊達家第17代当主です。
この政宗から遡る事200年…。
実は室町時代にもう一人の政宗がいました。
みきおの家系はこの時代に始まります。
この政宗には宗行という弟がいました。
宗行は伊達家から分家し「大條」という姓を名乗ります。
この人物こそみきおのルーツです。
いや不思議でね。
ここら辺がよく分からないんですけど…。
なぜ大條になったのか。
そしてまた何で何で伊達にまた戻ったのかもちょっと分からないですね。
伊達家から分家した大條家とはどんな家系なのでしょう。
大條宗行の直系の子孫が仙台に住んでいる事が分かりました。
(取材者)こんにちははじめまして。
物理学の研究者でもある…宗行さんは大條家に関する資料を集めています。
これは明治27年に出版された伊達一族の系図が書いてある。
伊達がどうやって発展したかその中で大條伊達がどのようにして現れたかという事が分かります。
資料の中に大條家の先祖宗行の名前がありました。
初めは伊達宗行だったわけです当然。
これを見て頂きますとこの宗行君というのが「伊達郡大條村に住み大條氏を称して一家に列す」という事で。
この姓を大條と改めた。
それで大條はこの時にスタートしたと考えられます。
ちょうど今年で600年になると。
こういう事でございます。
伊達宗行改め大條宗行。
分家して移り住んだ地名大條を姓にしたというのです。
かつての伊達郡大條村に向かいました。
現在の福島県伊達市にあたります。
「條」の字は変わったものの今も「大枝」の地名が残っていました。
郷土史家の酒井睦夫さんに案内してもらいました。
大條家が暮らしていた城の跡が残っていました。
敵の侵入を防ぐ堀の跡です。
大條家はおよそ200年もの間この地を治めました。
時は下って独眼竜政宗の時代。
大條家は新たに山元の地を任されます。
そこは敵対する相馬氏との最前線。
守りの要となる場所でした。
宮城県南部の海岸沿いの町…2011年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けました。
ここには大條家が建てた茶室が残されています。
大條家の人々は節目節目にこの茶室に集い一族の結束を固めてきました。
山元町の資料館には大條家の家系図が残されていました。
長いですね。
非常に長いです。
ここでまだまだ江戸時代の半ばくらいでしょうかね。
長さ4mを超える家系図。
室町時代から幕末までの全ての当主が書かれています。
家系図の最後にあったのは「道徳」という人物です。
特に明治維新と幕末の時期に仙台藩の中で戊辰戦争の戦後処理等々を担当した人間になりますので非常に重要な人物になってます。
みきおから4代遡った高祖父大條道徳は27歳で仙台藩の家老職にあたる奉行を務めました。
道徳30歳の時新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争が始まります。
旧幕府側についた仙台藩は新政府軍の前に降伏。
仙台藩は取り潰しの危機に陥りました。
その時新政府側と交渉にあたったのが大條道徳でした。
東北の明治維新史を研究する…道徳は重い使命を負っていたといいます。
まあ処罰される事はこれはもう確定。
伊達家の家名を存続させるって事これはもう絶対条件。
しかも藩の奉行という役職ですから藩の取り潰しを回避するというのも絶対条件。
道徳は新政府の代表木戸孝允との会談に臨みます。
道徳の交渉の結果領地は減らされたものの伊達家と仙台藩の存続は認められました。
家系図の道徳の横に添え書きがありました。
伊達家当主により大條から伊達の姓に戻すように命じられています。
こうして大條家は450年の時を経て再び伊達の姓を名乗る事になったのです。
へぇ〜なるほど。
はぁ〜。
いや大條から伊達に戻ったのがほんとに分からなかったんで…。
戊辰戦争からなんですね。
へぇ〜。
伊達というのはもうもちろん知ってましたしその伊達の中に大條城がお城があったんだという。
で城に住んでたんだといううちの先祖が。
それがすごくびっくりしました。
今すぐ行きたいです大條城。
はい。
伊達家の歴史の中でみきおが特に気になっているのが祖父忠亮の事。
うちのじいちゃんは東大出てますね。
とにかくもう図書館なんじゃないかというぐらい本がありましたじいちゃんの部屋。
一生見ないだろうなというような題名の本ばっかりでしたけどね。
伊達忠亮は大正4年8人きょうだいの長男として生まれます。
父亮治は東京帝国大学を卒業した裁判官でした。
忠亮は父の期待を一身に受けて育てられました。
忠亮の末の弟忠敏さん。
受験勉強に追われていた兄の様子を覚えていました。
東京の高等師範学校の数学科出た方がいるんでそこにおやじはわざわざ頼んで住み込んで数学教えてもらったんですね。
だからめきめき成績が良くなって東大の法学部におやじのあとを継ぐために入ったんですけども。
無事に東京帝大法学部に入学した忠亮。
父と同じ裁判官を目指しました。
ところが…。
あっうちのおやじだ。
みきおの父政亮さん。
忠亮の遺品を大切に保管しています。
これがたまたま探したら出てきたんですよ。
忠亮が晩年に書き残した家族の記録が見つかりました。
うちのおやじは字もきれいだし真面目だから全然私そういうところ似てないんですけども。
司法試験に失敗した忠亮は裁判官を諦め満州重工業開発という会社に就職しました。
昭和15年忠亮は旧満州現在の中国東北部に渡ります。
満州重工業開発は日産コンツェルン総帥鮎川義介によって創設されました。
石炭や鉄鉱石の採掘など満州の鉱工業を担う巨大企業でした。
忠亮は法律の知識を買われ文書の作成や管理を任されます。
間もなく…そんな中出張で日本に戻った忠亮は仙台に帰省します。
そこで思いがけない事が待っていました。
お見合いです。
相手の名は伊澤時子。
260年以上続く伊達家御用達の老舗勝山酒造の娘でした。
時子の生まれた家が今も残されています。
こちらはですね昔の我々の勝山の酒造工場なんです。
ただこれ古いんですけどね戦災を免れました。
時子のいとこの息子伊澤平一さんが中を案内してくれました。
(取材者)この部屋は昔のまんま…?大体昔のままですね。
お正月なんかはここで宴会をやってましたね。
時ちゃんが…時子さんがいらした時もここら辺はみんないつでも使ってた部屋だと思いますね。
こちらがずっと我々のご先祖の写真なんですけどもあれ以上ないんですわ。
広大な敷地の中には今レストランや結婚式場が入った建物があります。
ここにはかつて皇族や海外からの賓客を迎える迎賓館がありました。
これは朝鮮の王族李垠が訪れた時の写真です。
7人きょうだいの長女として生まれた時子も記念写真に加わっていました。
時子の兄嫁伊澤美恵子さん。
時子から少女時代の思い出を聞いています。
時ちゃんはね…別荘に絵の先生とか書の先生とか毎月一日かなんかおいで頂いてお稽古事していたみたいでね。
伊達家の子孫と老舗酒蔵の娘。
縁談はとんとん拍子で進みました。
昭和17年2人は結婚。
忠亮27歳時子は23歳でした。
結婚式の写真には忠亮の隣で時子が華やかな振り袖に身を包んでいます。
伊澤家に関わる女性が結婚の時に着る特別な着物です。
それが今も残されていました。
これは私も後で教えて頂いたんですけど時子さんがこれを着てうちのおふくろが着て時子さんが着てそれから私の嫁が着て私の長男の嫁が着ましたからだいぶもとはとれてますけどだいぶボロになってますね。
新婚初夜は大條家ゆかりのあの茶室で過ごしました。
忠亮は大條伊達家の歴史が詰まったこの場所を時子に見せておきたかったのです。
忠亮は手記にこう書いています。
「二人だけになった夜時子が座り直し畳に手をついて『よろしくお願いします』と言ったので『これは大事にしなければ』と私はしみじみ思いました」。
結婚式を終えると2人は満州へ渡りました。
新婚生活の舞台は満州国の首都新京現在の長春です。
住まいは庭付き2階建ての大きな社宅。
家政婦までいた豊かな暮らしでした。
結婚の翌年長男政亮が誕生。
みきおの父です。
続いて次男が誕生します。
しかし満州にも戦争の足音が迫っていました。
昭和20年8月1日忠亮はついに軍隊に召集されます。
配属されたのは新京から南に300キロ離れた撫順の部隊でした。
その僅か2週間後敗戦。
部隊は撫順で解散。
忠亮は家族のもとへ自力で戻る事を余儀なくされます。
満州各地で支配者だった日本人への反感が噴き出していました。
「中国人労働者らしいのにつかまり身ぐるみはがれた上列車の窓から投げ落された」。
夕暮れのコーリャン畑をはだしで走り忠亮はひたすら新京を目指します。
2週間後忠亮はやっとの思いで我が家にたどりつきました。
すると時子がいるのに気付きます。
「何と時子が台所の裏口に出て七輪の火をおこしていたのです。
やっと家に戻れた訳だ」。
しかし喜びもつかの間。
侵攻してきたソ連軍によって男たちは次々に捕らえられていました。
忠亮も連行されます。
忠亮はシベリアへ送られる事になりました。
駅に向かう途中の事です。
忠亮の目にある光景が飛び込んできます。
それは2人の幼い子供を連れた時子の姿。
しかし声をかける事もできませんでした。
結婚して3年家族は引き裂かれました。
忠亮のシベリア抑留の記録が残されています。
送られたのはアムール州のライチヒンスク収容所。
石炭の採掘などの強制労働を課せられました。
夫と引き離された時子。
引き揚げ船が出るまで2人の子供を食べさせなくてはなりません。
昭和21年ようやく仙台に戻った時子が目にしたのは一面の焼け野原でした。
時子は2人の子供を連れて実家の酒蔵伊澤家に戻ります。
しかし大部分は空襲で焼け残された家屋には既に多くの親戚が暮らしていました。
伊澤の方でも大変だから面倒見てあげられないから…。
伊達に行かなくちゃって伊達さんの方に連れていったみたいなんだけどもね。
時子は夫の実家伊達家に向かいます。
当時の家を政亮さんが覚えていました。
伊達家も戦災で自宅を失っていました。
仮住まいに3世帯が身を寄せ合う事になります。
あとでここんとこにお風呂を付け足したって話ですね風呂場。
何不自由なく育った時子にとって思いも寄らない生活。
うちのおふくろはいつもこぼしてましたよ。
風呂入っても一番自分が最後に入るんで膝の下になってしかもドロドロ。
そんなに毎日お風呂取り替えられるわけでもないでしょうから…。
お風呂はすっかり汚くなった風呂にしか入った事ないと。
当時の時子を撮った写真が残されていました。
幼い政亮の手を引き乳飲み子を背負う時子。
手提げの中に入っていたのは靴下の束でした。
親戚かお友達から靴下を分けてもらって安く譲ってもらって靴下を売って私たちに食べさせるために仕事をしたと。
「伊澤の時ちゃんでないの」なんて言われた事もあったらしいけど食べていくために生きていくために子供養うためにはやむをえない。
そういうような覚悟で歩ってたんだろうな。
シベリアヘ送られた夫を待つ時子。
政亮さんは子供心に母の不安を感じていたといいます。
満州で忠亮と別れて4年がたった昭和24年9月。
シベリアから舞鶴港に引き揚げてきた忠亮。
妻に宛てた帰還の知らせでした。
満州で引き裂かれた家族は4年の歳月を経て再会を果たしたのです。
いや今のは…全部がすごすぎて何から話したらいいか分かんないぐらいの…。
頭の中いっぱいですね。
うちのおばあちゃんはね僕を見るともう…「勉強しなさい勉強しなさい」しか…。
それぐらいしか記憶にないぐらいのおばあちゃんだったんで…。
おばあちゃんの若い頃のおばあちゃんを知れてよかったですね。
すごい人だったんだなと思います。
うちのおじいちゃんも東大でそのお父さんも東大でしたよね。
それも知らなかったですもん。
はい。
びっくりです。
裁判官になろうとしてた事も知らなかったですし…。
うん…。
裁判官になりたかったんですねうちのじいちゃん。
そういう人の孫で俺いいのかな…。
シベリアから戻った忠亮は帰国後地元の銀行に入社。
支店長や本店の部長を歴任しました。
息子の政亮も地元の大学を出て同じ銀行に勤めました。
勤務態度は真面目で実直。
昭和47年職場で知り合った後輩のひろ子と結ばれます。
2年後には長男の幹生が誕生。
木の幹のように太くたくましく育ってほしいと付けられた名前でした。
伊達家では代々名前に「政宗」に由来する文字や「亮」の字を使ってきました。
「幹生」という例外的な名前にしたのには父政亮の思いがありました。
例えば病院に行って待合室で待ってる時に順番呼ばれて「伊達さん伊達政亮さん」って言われるとハッとする。
逆にあんまり言わないでくれと。
今伊達政宗って言ったんでねえかとみんな注目するからなかなか立てないとかねそういう事もありましたし。
息子に伊達の名の重圧をかけたくなかったのです。
政亮は家庭でも生真面目でした。
見るテレビはNHKの教養番組ばかり。
息子のみきおにも手堅い仕事に就いてほしいと願っていました。
そのかいあってみきおは介護福祉用品を扱う会社のサラリーマンとなりました。
堅実な仕事を選んできた伊達家の流れにみきおも連なるはずでした。
みきおに転機が訪れたのは23歳の時。
かわいがってくれた祖父の死がきっかけでした。
「ああ死ぬのか」と思ったんですね。
という事はなんか好きな事やんなきゃいけないのかなってちょっと思ったんですよ。
急にねこのままずっと仕事していってずっと働いていって人生が終わるのがちょっと物足りなく感じたというか…。
みきおは高校の同級生富澤たけしに誘われてふるさと仙台を出る決心をします。
そして父に告げました。
ほんと3年だけ時間下さいと親に。
3年で駄目だったら帰ってくるよというのがあって行ったんです高速バスで。
2人の最初のコンビ名は「親不孝」。
1年が過ぎ2年が過ぎ約束の3年を過ぎても一向に売れません。
ライブでも集まる客は僅か数人。
家賃6万8,000円の部屋で富澤と同居。
アルバイトでしのぐ日々でした。
早くやめて商売というか会社勤めかねサラリーマンにでもなってほしいなとは思ってましたよ。
仙台が大好きなんでね仙台帰りたいんですけどやっぱりあの…何の報告もできないですしあとどれぐらい頑張るんだって言われた時に何年という事も言えないしちょっと避けてたかもしんないです。
仙台を飛び出して9年目。
ついにみきおたちは大きなチャンスをつかみます。
テレビの漫才コンテストで優勝し人気に火が付きました。
棺桶のサイズ直しの氏家さんですか?いや違います違います違います。
実はうちのおやじが今病院で入院しててさどうやらこの2〜3日が山らしいんだよ。
おやじさんがヤマアラシだって…。
言ってねえよ。
何でおやじヤマアラシなんだよ。
山!川?何の暗号だよ!何の扉が開くんだよ!すごくうれしかったですしあの…やっと胸張って仙台に帰れる時でしたね。
ふるさと仙台でもテレビのレギュラー番組を持つ事ができました。
そして…みきおはテレビ番組の撮影でたまたま宮城県気仙沼の魚市場にいました。
午後2時46分大きな揺れを感じます。
番組スタッフに促されみきおは近くの山の上に避難します。
こんな事が現実に起こってるんだという感じですかね。
もう何が何だか分かんなかったですね。
どんどんどんどん陸が海になっていくっていうのを見て。
そのまま気仙沼で一夜を過ごしたみきおは翌朝急いで仙台の実家に向かいました。
実家に着いたのはもう日が暮れるころでした。
家族の無事を確認してホッとするみきおに父は思わぬ事を言いました。
正直何年に一回しか行かないような気仙沼にたまたまあの日にいてしかも海沿いにいてで僕らは助かって…。
何でしょうね…。
これは多分伝えていかなくちゃいけない人間としては何となくこう…使命のような事を感じたりはしてますね。
震災の僅か5日後みきおたちは復興支援の義援金窓口「東北魂」を設立。
おっしゃ行こう!自ら被災者のもとへ物資を届けました。
(拍手)みきおが現れると拍手が起きました。
この現状を伝えなければならない。
ふるさと東北のために力になりたい。
こういう方々が来るとうれしいな。
そうですね。
心を和らげてくれてね。
ほんとにね疲れが抜けちゃう。
うんほんと。
はい。
ブログには力強い言葉を残しました。
うん…うん…。
何でたまたまいたんだろうなと思いましたね。
うん…。
もしかしたら震災の日に僕らが普通に東京で仕事していればもしかしたらここまで本気になって一生懸命やってないのかもしれないですね。
うん…。
やっぱりあの目の前であの大津波を見て逃げてる人たちを見て流されてる家とかを見たから…。
やらなくちゃいけないというかやります誰でも。
あれ見たら。
でもすごく心強かったですね。
おやじがいるからここは大丈夫だなと思ったというか…。
あの…仕事に東京に行けるなと思いました。
頼もしかったですね。
避難所に手伝いに行ったりもしてたんでうちの父親は。
すぐそういうのはね動くんですよ。
身が引き締まるというか「伊達」という名字の意味がすごく分かったので毎回どっかに名前を書く時とか伊達という名字をこれまで以上に多分しっかり書く気がしますね。
すごく重みのある名字を僕は背負ってるんだなと。
みきおの父政亮さんが大切にしているものがあります。
それは14冊にもなったスクラップブック。
みきおの出ている新聞や雑誌の記事を集めたものです。
(ひろ子)欠かさずラジオとかは聴いてますけどね…。
全部見てるね出るやつは。
(ひろ子)あれ面白かったね。
「高校講座地理」。
NHKに出ると褒めてくれるんですよ。
(取材者)いまだにやっぱNHKに出るとうれしいですか?
(ひろ子)そうみたいですね。
NHKNHKってずっと言ってたから。
そして玄関には…。
(政亮)気象台とか警察。
こちらスーパーみやぎ生協にも貼ってありますけど「ゆるサンド」「万引きは許さないよ」。
やっぱりニコっとしますもんね。
「あここにもいた」って。
ふるさとのために率先して仕事をしているみきお。
復興を支援する番組やイベントへの出演など東北各地を精力的に回っています。
すみませんラーメン2つ。
私もそれで。
4つ来ちゃうぜ。
(笑い)政宗は天下とれなかったけど幹生ちゃんは天下とったような形だからね喜んでんですけどね。
私よく頑張ったねって言いたいですね。
そういう…こういうふうになると思わなかったのね。
ああこのまま伊達家のためにも宮城県のためにも大いに頑張ってもらいたいと思ってます。
かつて伊達の名を使うなと言った父政亮さん。
(取材者)今伊達の名を使ってるみきおさんどう思いますか?今はもう完全に許してます。
許してます。
あれだったら伊達の名に恥じないだろうというふうに思って私は今はもう認めてます。
昨日まで4日間仙台にいたんですけどね仕事で。
もう仙台行きたいですねもう今からまた。
はい。
2015/05/08(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「伊達みきお〜伊達の名に誓った覚悟とは〜」[字][再]

伊達みきおさんは芸人になる時、「伊達の名は使うな」と父から言われた。伊達政宗につながる家系。伊達の名を背負う重み、誇りが明らかになる。そして、震災で誓った覚悟。

詳細情報
番組内容
伊達みきおさんは芸人になる時、「伊達の名は使うな」と父から言われた。あの伊達政宗につながる家系。それがある時、伊達家から分家し大條(おおえだ)を名乗り、再び伊達姓に戻ったという。一体、何があったのか。そして、東京帝大出身の祖父。遺品の中から見つかった手記。終戦後の混乱、シベリア抑留など、祖父の素顔が明らかになる。そしてみきおさん自身も遭遇した東日本大震災。故郷の地に誓った覚悟があった。
出演者
【出演】伊達みきお,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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