twitterで遺言めいたツイートをしていたフォロワさんが本当に水に入って死んでしまった。
昨日の夜中にそのことを知って(親族の方がツイートしてくださったので)、それからずっと考えてる。
彼が亡くなるおそらく直前までの一連の遺言めいたツイートをわたしはリアルタイムで見ていた。何かかけられる言葉があったのだろうか。でもまだなんて声をかけるべきだったのかわからない。
彼が亡くなった直後に自分のブログでまるでコンテンツのようにその死を扱うことについては自分の中に違和感がある。けれど整理の意味も込めて、少し書いてみたい。
わたしは、死後の世界があるかどうかについて知らない。死んだら本当に全部が終わってしまうのかどうかもわからない。生きているのが辛くて死んだ先がもっと辛くない保証なんてどこにもないと思う。死んだことがないから確かめようがない。
けれど、一つだけ確かなのは、死んだら生き返ることができないということだ。
だからたとえそれがネット上であれ、「死にたい」と口にする人がいれば「やめたほうがいい」と声を掛けることにしている。それは直接関わらない者の無責任な言葉かもしれないけれど、ただの自己満足なのかもしれないけれど、でもそういうことにしている。だって「死んでみたらもっと辛かったからやっぱりやめて生き返る」とか「死んでみたら何にもなくてつまらないからやっぱり生きてたほうがマシだから戻る」とか、そういうことはできないのだ。
彼は芸術家だった。そして心を病んでいたし、酒をいささか飲み過ぎた。twitterに浮上している彼は大抵飲んでいて、プロ野球を応援したり自分の不適合を嘆いたり散歩して食べているものの写真をアップしたり音楽に対する自分の思いを語ったりしていた。酒を飲まないと普通でいられないと言っていた。
酒を飲んだ彼は饒舌だったが、ツイートで印象的なのは、常に彼自身がどこか他人事のように扱われていることだった。自分自身について語っていても、それは「嬉しい」とか「楽しい」ではなく、「俺はこういうときに嬉しい気持ちになるんだよな」とか「楽しいなんて感じているんだ」とかそういった具合だ。自分自身の繊細さや(英語的な意味での)ナイーブさについて語るときは、第三者からの評価として語った。その自身の中にある現実感の無さや所在の無さからくる自己認識の過度の客観化に(勝手に)共感してずっと眺めていたし、ときどき互いにふざけたリプライを送りあった。
繊細だからなのか、心を病んでいたからなのかは分からないけれど、ときどき大丈夫かしらと思うようなツイートをすることもあった。でもたとえば死にたいとか生きているのが辛いとかそういう直接的な鬱っぽいツイートはほとんど記憶にない。事実として「もう半分以上死んでる」とかだからといって「正しく殺すつもりはない」とか語ることはあったけれど、たとえば「辛い」という言葉を使うときでも具体的な事実に対して使っていて、抽象的な概念として「死にたい」「辛い」という言葉を見たことはないように思う。先ほども少し書いたけれど、彼は今現在の感情を自分の感情の表現のようにツイートすることをあまりしないのだ。
だからなのか相手が芸術家だからなのか、なんとなくわたしはそういったツイートを遠巻きに眺めていた。だって機嫌がいいときには自分の住んで居る町を賛美してあらゆる物事を奇跡の集まりみたいに捉えて思い出話なんかを語ったりして。野球の動向をとても楽しみにして、同じ町内でいい転居先を探したりなんかしてさ。
ローなツイートもハイなツイートも酒を飲んでいる所為なんだとわたしは思っていたのかもしれない。芸術家というのは才能と引き換えに、生きにくさや逆に人が気付かないようなそれこそ奇跡みたいな喜びを抱えているものだろうという思い込みもあったのかもしれない。
いずれにせよ彼が自分の中の葛藤やそうでなくても思いついたことや実際に行ったできごとを言葉にしてツイートすることはいいことなのだろうと思っていた。それらの言葉はときに彼を癒すのだろうと。そうして生きにくさとなんとか折り合いをつけているのだろうと。
でもきっと本当に彼が辛かったのは、死んでしまいたいと思っていたのは、酒を飲んでいないとき、ツイートをしていないときだったのかもしれない(もしそういう瞬間があったのならば)。とはいえそれはわたしには知ることができないことなのだし、彼が表明しないのであれば知る必要だってきっとなかったことなのだ、二人の関係性として。
彼の死の直前のツイートはなんだか胸騒ぎのするものだった。それは暗くもなく、絶望もしていなかった。世を儚んでもいなかったし、自分を嘆いてもいなかった。むしろ普段よりも明るかった。晴れ晴れとしていて、突き抜けた感じがした。自分自身のことに言及もしていたけれど、それはいつもの観察的な自己分析とそう違っているものでもなかった。ただ、やけに明るかった。
いつもと明確に違ったのは、「さようなら」という言葉を使っていたことと「ありがとう」と感謝を述べたことと最後に「すべてが遺言」という言葉を使ったことと、それらが客観的ではなく主観的に表現されていたことだ。
でも妙にツイートが明るすぎて、わたしは自分の直感を無視して、彼の直接的な「遺言」なんて言葉も酒の所為だと判断して、いつものツイートと変わらない、それは彼の癒しの言葉なのだと思うことに決めて、彼が死ぬのを止めることをしなかった。しなかったんだ。
ただもし今そのときに戻れたとして、彼に一体どんな言葉をかけられるだろう?
死にたい人にかける言葉はある。事情を聞けば解決策だって一緒に考えられるかもしれない。一時の同情にすぎなくても話を聞くことで相手の感情が和らいで死ぬことから意識を逸らしてくれるかもしれない。騙し騙しでもそうやって生きていればよくなっていく糸口がつかめることだってある。
けれど、死のうと既に決めた人にかける言葉なんてあったのだろうか? 届く言葉なんてあったのだろうか?
彼は自宅からずいぶん離れた遠くの海まで少なくともなんのためらいも表明せず、確信を持って向かったのだ。そこまで一直線に敷かれた死へのレールに乗っかってしまった人間に、一緒に苦しむ間柄じゃない人間が、何と声をかければいいというのだ。
それに届く言葉なんてものが仮にあったとしても、それをたかがツイッター上のFFが使ってもいいのだろうか。ただたまにツイッター上でリプライを飛ばし合うだけの間柄なのだ。自分がどうにかできた可能性の方がずっと低いだろう。そんな筋合いではないと思われるだけだっただろう。
でもじゃあわたしはどうするべきだったんだ。現実にそうしたように、ただ指をくわえて、彼がきちんと家に帰って酒を覚まして次に酒を飲んだ時にツイッターに浮上してくるのを待っていることしかできなかったのだろうか。
うむ。きっとそうなのかもしれない。そのくらいの距離感がネット上の本当なのかもしれない。だけどなんだこの虚しさは。本当はわたしは声をかけるべきだったのだ。たとえ「これから死ぬ」とか「死にたい」とかいう風に「死」という言葉を直接使っていなかったにせよ、少しでも違和感を感じたなら何か話しかけるべきだったのだ。わたしは彼に死んでほしくなかったのだ。いや誰にだって死んでほしくはないのだけれど、わたしは本当に、死んでほしくなかったのだ。それを伝えてからだって、静観するのは遅くなかっただろう? たとえ止められなかったとしても。うざったいと思われたとしても。止められる可能性がほとんどなかったとしても、それでも。
なのに現実の自分は何もしなかったし、今でもどう声をかけるべきだったのかはわからない。
もう、ただ彼の冥福を祈ることしかできない。そして願わくば、もしあの世なんてものがあるなら、せめて彼の抱えた苦しみは持って行っていないように。届くか分からないけど、祈るのは、自由だろう?
自己満足。そうかもしれない。でもね、こんな悲しい祈りの言葉でそうそう満足出来るとお思いか。