本 文
序 章 呪いと聞いて、みなさんは何を想像するだろうか。真夜中、ロウソクを立てた鉄輪を頭につけた白装束の女が、鬼気迫る形相で、神社の木にわら人形を五寸釘で打ちつける姿が浮かぶかもしれない。さらにそれは、奈良・平安の昔に行なわれていた迷信だと思うことだろう。 現代は科学的な合理主義に裏づけられた時代である。人間は誰かから呪われているのではないかと思い込むと、その不安から暗示にかかり、心身の不調を訴えるようになることがある。それが呪いの正体だと科学的には説明がつく。そう考えてしまえば、それだけのことである。自己暗示が原因なら、こちらが呪いなどまったく気にかけなければ、何の異変も起こらないはずだ。 けれども、話はそう簡単には終わらない。男女の恋愛関係のもつれ、学校や職場での人間関係のいざこざ、仕事上のトラブルなど、他人を妬んだり、恨んだりする気持ちがこみ上げてくるような出来事は、誰もが多かれ少なかれ経験することだ。しかも、そうしたストレスや欲求不満の種を作った相手を直接攻撃して鬱憤を晴らしたり、復讐を果たすこともままならない。歯がゆくて仕方がないが、かといってこのままじっと耐え忍ぶこともできない。そういうときに、「呪い」という言葉が頭をもたげる。 人間の意識の中でも、特に感情は「エネルギー」としての性質を持っており、他人の意識に干渉したり、身体の状態にも影響を及ぼしうる。本書では、「呪い」は単なる迷信に基づくものではなく、人間の情念が目には見えない意識のチャンネルを通じて周囲の人や事物に影響する性質を持っていることを解き明かし、呪いは現代にも存在することを、さまざまな事例や研究データに基づきながら示していく。 まず、典型的な呪詛の事例を紹介しよう。 吉田平八(仮名)の自宅に一本の電話が入ったのは、春一番が吹き荒れた二月のある夜のことである。 「先生、お久しぶりです。ご無沙汰していました」。 声の主は、彼の祈祷所に以前出入りしていた横山智寿子だった。 「おやおや、珍しいですね。最近はちっともお目にかかっていませんが、どうなされました」。 どうせ、拝み屋のはしごでもしていたのだろう。あちらの拝み屋がよく当たると聞けば、あちらになびく。こちらの拝み屋が力をもっていると聞けば、こちらへ来る。人の気持ちは移ろいやすいもので、風評や噂次第でにわか信者が流れてくる。 依頼者の願望を、はっきり眼に見える形でかなえてやるのが拝み屋稼業の常、結果が出なければ、信者なんていなくなってしまう。まったく勝手なものだ。平八は腹の中でそう思いながらも、努めて平静を装って、智寿子の声に耳を傾けようとした。 「あれからいろいろありまして、やっぱり先生でないとだめだと思ってお電話を差し上げたのです。お目にかかってご相談したいので、予約をお願いしたいのですが」。 せわしない口調で智寿子は言った。 数日後、智寿子が平八の祈祷所にやって来た。無沙汰の挨拶もそこそこに、さっそく用件を切り出してきた。 「じつは先生。今回はどうしても先生のお力をお借りしたくて来たのです」。 見ると、智寿子の身体から、チクチク刺すような「気」が陽炎のように出ている。こちらの身体まで刺されるような痛みが走る。かなり殺気だっている様子だ。 「私の舅を殺っていただきたいのです。お金ならいくらでも出します」。 声は震え、目に涙を浮かべている。 「これはただごとではありませんな。私は曲がりなりにも神に仕える身。人の命をあやめるなどという仕事は請け負いませんよ」。 平八は表情を変えずに言い放った。 「おとぼけにならないでください。先生は人の運命を左右するお力をお持ちだと、もっぱらの評判です。私の友人から、このあいだ先生に拝んでもらったら、職場で彼女を長年いじめ続けた上司が交通事故で急死したと聞きましたわ」。 「あれは私の力ではありません。彼女は熱心に私の所の神さまを信仰していらっしゃいますからね」。 「いえ。先生、まだごまかしてらっしゃいますわ」。 智寿子は自信に満ちあふれた声になった。 どうしても、自分に仕事を依頼したいのか。こちらが身を削るような思いをする過酷な仕事なのに……。平八はため息をついた。 人間業でできることと、できないことがあるのだ。人ができないなら、人間以外のものを召喚して力を借りなければならない。それに費やす精神力は並大抵のものではない。人間同士のすることに神仏が直接働いて、運命を左右することはめったにない。病気、事故、けが、人間関係のトラブルなどの不幸を起こしたり、その逆に思いがけない仕事を与えたり、大金を稼がせる、というのは眷属、そして拝み屋たちが使役している異形の霊体が介在している領分である。 「先生は神さまのお使いと交信なさるそうですね。私は先生にではなく、先生の後ろにいらっしゃる神さまのお力をお借りしたいのです」。 しばらくの間、重い沈黙の時間が流れた。 「智寿子さん、あなたもそういうからにはよほどの事情があるのでしょう。どんな理由から舅さんの命を取りたいと思うようになったのか、詳しく話してもらえませんか」。 智寿子は、夫の実家で舅の定男と同居している。定男は強欲で、自分のほしいものは手段を選ばずに手に入れてきた人間である。金融関係の事業を興し、金の力にものをいわせて事業を拡張してきた。七十歳を過ぎた今では、息子である智寿子の夫に社長業を任せ、自分は勇退して道楽三昧の暮らしをしている。妻は十年前に病没。定男の言いなりになって、苦労に苦労を重ねたあげくの病だった。 定男は第二次大戦で、特攻隊予備役として自分の死の順番を待っているときに敗戦の日を迎えた。親兄弟はすでに空襲で亡くなり、家も焼かれて一文無しになっていた。すべての価値観が崩れ落ちた戦後の混乱の中で、飢えと貧しさの苦しみをいやというほど味わった。その日の食べ物を得るために、何としても金を稼ぐことが定男には必要だったのである。すべては金のため、金さえあれば人の心も変えることができる。天涯孤独となった定男は守銭奴の道をひた走ってきた。 こうした来歴ゆえに、定男は徹底した倹約家で、息子の給料から孫への小遣いに至るまで、家計の一切を取り仕切っていた。そして、智寿子にパートタイムの仕事を探してきて、働きに出るように迫った。智寿子はこれに口応えすることもなく、黙って仕事に出るようになった。そのうえ、彼女が働いて得た金をすべて定男に差し出すように言われた。その金を、定男は自分名義の預金にして貯め込んで、温泉旅行の資金や茶飲み友達との食事代に使ったのだ。 ある日のこと。台所で食事の支度をしていた智寿子の背中に人の気配が忍び寄ってきた。智寿子は後ろから急に定男に抱きつかれ、身体を触られた。智寿子の首筋に脂ぎった定男の顔があてられ、かさかさの唇から赤くただれた舌が延びてきた。 智寿子は必死になって定男をふりほどいた。 「年寄りに向かって何しよるんぞ。お前はわしに食わせてもらっとる身じゃろうが。わしの財産も狙っとるんじゃろ? まだ不足なんか? ほうなら、これでどうじゃ」。 そう言うと、定男はいつも身につけている巾着袋から札を二、三枚抜き出して、智寿子の顔に投げつけた。 智寿子がこれまでの身の上を語り終えるのと同時に、平八の脳裏に阿修羅のような彼女の顔が、化粧気の薄い本人の姿に重なって見えた。 「智寿子さん、お気持ちはよくわかりました。もし、神仏の目から見てあなたの言い分に一理あるというなら、必ず救いの手が差しのべられることでしょう。神さまに頼んでみることにしましょう。ただ、どのような結果になっても、後戻りはできませんよ。そして、何よりもあなた自身が一心不乱に神仏にお頼みする気持ちがなければ、想いは通じません。私はあなたのそういう想いを受けて、あなたの望みをかなえられるように、神仏の力をお借りする助っ人にすぎません。このことだけは前もって言っておきます」。 智寿子は納得した顔をして、帰っていった。どす黒いタールのような固まりが、智寿子の背中にくっついているのが見えた。それは頭に二本の角を生やした鬼の子だった。三本指を智寿子の肩に引っかけてしがみついている。鬼の子はくるりと平八の方に首を回すと、甲高い声でケタケタ笑いだした。 平八の母親は高知の物部村の出身である。村には昔ながらの太夫がいて、病気治しや人生相談、先祖供養などの儀礼を行なっている。今でこそ「いざなぎ流」というと、かつて隆盛を誇った陰陽道の傍流として、また最近の安倍晴明ブームにも乗って聞こえがよくなっているが、昔の四国では拝み屋のことを太夫と呼んで、人々はたいそう気味悪がった。 太夫は人の病気を治すだけでなく、懲らしめるための呪詛も行なっていた。いざなぎ流が最強の呪術といわれるのは、古代の祭祀氏族である物部氏の時代からの神祇信仰に加えて、中国大陸から入ってきた鬼道、蠱道、陰陽道の影響も、ほぼ原型をとどめる形で残しているためである。式王子を召喚し、これを駆使する方法は、脈々と伝承されている。平八も幼い頃から、他人の眼には見えない異形の存在と戯れていた。先祖から受け継いだ太夫の血が、平八の遊び相手として多くの鬼を呼び寄せていたのだ。 「またじゃ……」。定男はびっしょり濡れている自分の敷布団を見てつぶやいた。枕元の時計を見ると、針は夜中の二時過ぎを指していた。今夜も悪夢にうなされた。黒装束に身を包んだ中年の男性が、定男の寝床のそばで何やら自分を呪う言葉を口にしているのがはっきり聞こえた。・・・・・・ 第一章 四国魔界フィールドワーク 「魔界」四国に住む 私の住んでいる四国には、「拝み屋」と呼ばれるシャーマンが大勢いる。拝み屋とは霊能力を持った祈祷師であり、占い、まじない、加持祈祷などを行なって、相談者のさまざまな悩み事や現世利益的な願い事を支援する人々のことである。神道系、仏教系、修験道系,陰陽道系など、宗教的背景はさまざまだが、昔ながらの呪術的、密教的伝統に根ざした儀礼を行ない、降神、憑依などのトランス状態になって託宣をしたり、神霊や仏との交信を通じて相談者の環境の変容を試みたり、心身の「癒し」を試みるのを生業としている。いわば伝統的霊性に根ざしたシャーマン型霊能者の世界が、今でも存在するのである。 人類学や民俗学の分野では、こうしたシャーマニズムをテーマにした文献をふんだんに見出すことができる。「癒し」の社会・文化的な規定を検討する上で、確かにこうした文献は有益な知識をわれわれに提供してくれる。しかし、人類学者や民俗学者はあくまでもシャーマニズムの社会的な機能や役割に焦点を当てて研究しているのであり、シャーマンたちが霊術を駆使して本当に「癒し」を行なっているのか、その真偽の程に言及することは少ない。 もちろん、彼らはフィールドワークの手法を採用し、シャーマンとその生活共同体に一定期間とどまって生活をともにしながら「生の資料」を集める。得られた資料には学術的な価値のあるものも多い。 しかし,彼らが手にしたデータをすべて公表しているとは限らない。それに加えて、研究の対象となっているシャーマンたちがどこまで実態をあるがままに見せてくれるか、語ってくれるかという問題もある。シャーマンたちから見れば、学者はあくまでも部外者であり、建て前を語っておくのが無難な存在である。それに何といっても学者先生の頭では理解できない世界も存在する。それは言うだけ無駄の世界だし,たとえその実態を見せても「そんなばかな」と抵抗されるに違いない。 私は四国に住むようになってから、拝み屋たちと接触するようになった。その出会いはまったくの偶然(というよりも「引き合わせ」があったというべきだろうが)であり、人脈は自然に広がっていった。というのは、私自身、心理学者とはいっても「魂」の問題をテーマに取り組んできており、神道や密教,そして四国土着の宗教的習俗にも関心を広げるようになったからである。私は臨死体験、死後の世界、生まれ変わり、超能力など、およそ通常の科学ではまともには取り上げない領域に足を踏み入れた研究者でもある。そういう「いかがわしい」ことをやっている人間は、アカデミックな世界では忌み嫌われる傾向があるが、他方で精神世界や宗教的、霊的な事柄に関心を持つ人々との接触が容易になったことも事実である。私の周りには、臨死体験者、霊感・霊媒体質者、神職、僧侶、気功家、ヒーラーなど多種多様な人たちが集まるようになった。 そういう人々の中で、特に私が強く惹かれたのは、シャーマン的な霊能者たちだった。彼らの生きざまは,筆舌に尽くしがたい苦難の連続であるように見える。しかし,一方で彼らは一筋の光明を目指して、闇夜の曲がりくねった道を歩んでいる求道者でもある。また,彼らの中には、さまざまな経緯から心の闇に呑み込まれ,霊的エリートとして組織のエゴを満たすための使い捨ての道具として育て上げられ,呪詛と呪縛を専門に、信者や他の霊媒に対する霊的攻撃,霊的虐待を繰り広げている人々もいる。特に、こうした心霊戦という名の闇の世界での戦いが、今の時代にも起こっていることを知ったときの衝撃は大きかった。 いつの間にか、私は四国の霊的な世界の虜になってしまい、自分の身をこの世界の中に置いてみることで、いったいここで何が起きているのか詳しくわかるようになった。 本書は、これまでに私が見聞した四国霊界を、知る限りの範囲で語ってみることが第一の目的である。そして,「呪い」と「癒し」,「闇」と「光」といった、対極にある「意識」の心理学的な分析と考察を試みてみたい。 なお、本書では個人名や団体名はすべて仮名とし、連絡先に関する問い合わせにも応じられないことを、最初にお断りしておく。・・・・・ 第二章 呪術の歴史 呪術の起源 呪術の歴史は人類の歴史そのものでもある。今から五十万年前、北京原人は、すでに遺体を埋葬するときにその周囲に赤い鉄の粉をまくという呪術的行為をしていた。先土器時代、縄文時代、弥生時代と、呪術的な営みは連綿と続き、現代にも残っている。 呪術とは、大自然の中にあまねく存在している眼には見えないパワーを、呪文(言霊、真言など)や呪具を用いて自然から取り出し、集め、神霊や精霊と一体化することによってそのパワーをコントロールするテクノロジーのことである。 このテクノロジーを専門技能として扱うのが呪術師(シャーマン)である。呪術師は、おそらく人類最古の職業であろう。太古の昔、われわれ人間が大自然の脅威にさらされて細々と生活していた頃、呪術師は共同体の中での智慧者であり、リーダーの役割を担っていた。自然の働きはカミの力の顕われであり、呪術師はカミと人を仲介して自然秩序を調節し、個人や共同体の運命を予見していた。天変地異、飢饉、病、事故、死など、どうして人間は不幸や不条理に見舞われるのか。その原因を探り、生存に関わる問題を解決しようと試みるのが呪術師の仕事であった。この世の悲しみ、悩み、悪や魔の力に屈することなく、否定的な出来事を消し去る能力を持つ人間が生活共同体には必要であった。 生まれつき備わった予知、透視、テレパシーのような特異な能力、トランス状態に入ることで神霊や精霊と一体化し、その意思を受け取る能力。呪術師はそのような能力を維持するために日夜修行していたはずである。やがて、彼らは共同体の中で特別な地位を占めるようになり、長としてムラやクニを治める者も出てきた。邪馬台国の女王、卑弥呼もその一人である。古代日本は、シャーマニズムと切っても切れない関係にある。 シャーマニズムとは、神と人間との間を呪術師あるいは巫覡が司り、宗教儀礼によって神がかり(トランス)となり、神の託宣を告げる呪術的儀礼を意味する概念である。巫覡という語は古代中国で活躍した呪術師を指し、殷や周の王権に仕えた「巫師」以来、秦・漢の時代にも盛んだったようである。呪術師はカミと人間の宗教的仲介者として独立した人格を持つものというよりは、自己の意識が「神の領域」にまで拡張し、これと一体化(憑依)できる特殊な血統および特性を持った人間のことをいう。日本では巫覡のことを巫女(ミコ)というが、これはまさに御子/神子(カミの子ども)という本質を持った人間なのである。 日本では明治に廃仏毀釈令(神仏判然令)が出るまでは、神社の中に寺院があり、神仏が渾然一体とした形で祀られていた。修験道や陰陽道も健在で、わが国独自の宗教的混合が認められた。明治から第二次世界大戦に至るまでの神社と寺院の分離、国家神道化への道は、日本の霊的伝統をズタズタに切り裂き、宗教的心性の貧困をもたらした。仏教の貴重な文化遺産が失われ、修験道、陰陽道も壊滅的な打撃を被った。さらに、敗戦後はアメリカから大きな文化的影響を受け、日本の伝統的霊性は急速に衰退していった。 そもそも、われわれ日本人は神仏に対してどのような観念や感性を持っていたのか。日本の宗教的心性の源泉、源流はどのようなものなのか。こうした伝統が失われ、霊性の空白期間を作ってしまった今では、探求するのも困難を極める。 第三章 シャーマンの危機 霊性とは何か 前章で述べたように、霊媒体質と呼ばれる人々の場合、幼い頃から他人には見えたり聞こえたりしないものが知覚できる。それが自分にしかわからないものであることを知ったとき、彼らはこれをなるべく他人に公言しないように努める。また、そういう子どもを育てている親などがこのような意識変容プロセスに無理解であるとき、体面を気にして、「普通の子ども」として育てようと試みるあまり、子どもの言動を封殺し、厳しく叱ったり、体罰を加えて抑圧しようとすることもある。 しかし、このような養育態度は子どもの霊性を含む全体的な心の成長を歪めてしまう。一時的に「普通人」に仕立て上げることはできても、時期がくると封印されていた霊性が怒濤のごとく吹き出してきて、かえって危機を深刻化させる可能性もある。 映画「シックス・センス」に登場した主人公の男の子は、霊媒体質ということで教師や同級生から攻撃され、「化け物」扱いされる憂き目をみた。われわれは得体の知れない特徴を持っている人間を見ると、本能的にその異質性に対し恐怖反応を示し、排斥しにかかる。これは「普通人」が持っている霊的なものに対する抵抗である。自分にない(と信じている)ものをほかの人が持っていることを、認めたくないわけだ。 しかし私は、意識本来の性質が発揮されていない「普通人」の方が霊性の面では不自然な状態である、という認識が必要なのだと思う。もっとも、後述するように、霊性の急激な発現は、一般人には持ちこたえることの困難な出来事の連続になる。 では、霊性(spirituality)とはいったい何であろうか。私は、意識の拡張に伴う、人間の非日常的な感覚や意識の現われ、つまり霊的、超常的、超個的、神秘的な体験全般を霊性と考えている。これらはいずれも、個人のレベルを超えた意識領域が自覚されるようになることを意味している。ただし、霊性に目覚めることは本人にとって建設的な成長をもたらすこともあれば、逆に破壊的、自滅的な結果をもたらすこともある。 これまでの西洋の物質科学は、およそいかなる霊性についても扱ってこなかったし、実際、霊性を科学的な世界観には不向きと考えている。しかし、最近の意識研究は、霊性が人間の魂(psyche)や物事の普遍的な枠組みに関わる、自然で正当な体験であることを明らかにしている。 深層心理学者ユングは、魂のより深いレベルから生じてくる霊性体験のことを、ルドルフ・オットーの言葉を引用して、「ヌミノース的性質(numinosity)」と呼んだ。ヌミノース(numinous)とは、神聖で、神々しく、尋常でないと感じられる体験を指す。これはまた、宗教的、神秘的、呪術的、あるいは神聖体験と同じような意味を持つ概念である。 トランスパーソナル学者のグロフは、霊性は現実離れした感覚を含んだ体験に基づくと述べた上で、霊性を宗教と区別してとらえる枠組みを提案している。霊性は、なにも特別な場所や神とのコンタクトを媒介するために選ばれた人を必要とはしない。それに霊的な直感は教会や寺院に通うことを必要ともしない。自分の身体と自然との交わりを通じて、誰でも神聖さを伴った現実感覚を体験することができる。だから、教会や寺院で説教を聞くよりも、自分より内的な体験の進んでいる求道者仲間によるサポートや霊的な教師の指導の方が必要なのだと、グロフは主張している。 いずれにしても、霊性は個人と宇宙との関係を特徴づける何かであり、それは必ずしも形式や儀礼、瞑想などを必要とはしない。本人の意思や意図とは無関係に発生している面もあり、「向こうの方」から突発的にやってくる性質を持っている。それに、日常生活の中でとても感動したり、普段の営みの中で聖なるものに遭遇するような体験も霊性の一種と考えられる。 私の考える霊性開発とは、・・・・・・ 第四章 呪の構造-超心理学の視点から- 超常的な意識の働き 前章でみたように、トランスパーソナル心理学では、人の意識が拡大する体験を研究の主眼に置いている。その中には、自己の境界の拡張に伴う、超常現象や特異な情報の伝達、精霊や異次元生物といった「非物質的存在」(non‐physical entities)との出会い、神霊との融合を示唆するような諸々の尋常ではない体験が含まれている。そして、これらはいずれもその人にとっての主観的な現実、個人の内的イメージのプロセスとして了解されてきた。 ところが、意識の拡張に伴う非日常的体験の問題は、それが単なる主観的体験の域にとどまらず、これまで超心理学の分野で研究されてきた「超能力研究」のデータとの関わりで議論されるべき性質をもっている。たとえば、内的なイメージの中に外界(物理的な世界)に関する情報が予知や透視という形でまぎれ込んでくる体験、精神が物質(自分や他人の身体、周囲のモノ)の状態に影響を与える念力現象、複数の人々の精神が直接的なコミュニケーションを行なうテレパシー体験など、通常の心の機能を超えた不可解な現象がトランスパーソナルな体験ではしばしば発生する。こうした体験は、われわれの意識が時間や空間に制約されずに働くものとして、近年、意識研究に携わる研究者たちが注目している現象でもある。 トランスパーソナルな体験は、臨死体験や体外離脱、過去生体験など、不合理、非日常的な「現実」を含んでいる。しかし、そのような尋常でないリアリティの体験は、ある程度の類似性(パターン)を持った出来事として取り出して、言語的、イメージ的に報告することができる。 また、透視やテレパシー、予知、念力といった超常的な体験については、実験室の中での一定の管理された条件で検証し、ある程度客観的に吟味する試みも行なわれてきたことをつけ加えておきたい。 このようなテーマを専門に研究してきたのが超心理学(parapsychology)である。超心理学は、心霊現象や超能力と呼ばれる現象が人間のもつ未知の心理作用に起因することを検証する学問である。・・・・・・ 第五章 呪いから癒しへ 科学と宗教の結婚 これまで、呪いや呪術をキーワードにして、心理学的な立場から意識と霊性の拡張プロセスについて考えてきた。こうした問題は、従来の科学の枠組みではほとんど取り上げられなかった、いわば知の空白地帯である。科学がこうした問題についてコメントすることがあっても、その多くは霊性を人間の陥りやすい判断の誤り、幻覚、妄想、病的な反応として軽視し、無視してきた。 これに対し、トランスパーソナル心理学は、人間の体験の中でも意識と霊性に関する現実感覚は多次元的な価値基準でとらえられる必要があり、特定の価値基準が他に勝っていると決めつけることの危険性を説く。 たとえば、ケン・ウィルバーは、現実感覚にまつわる価値の領域を次の三つに分類している。 (1)「私」の領域=意識、主観性、自己、および自己表現(アートと美学を含む)―真実、誠実性―還元不能で、直接的な活きた気づき―一人称。 (2)「われわれ」の領域=倫理とモラル、世界観、共通文脈、文化―共同主観的意味、相互理解、適切性、公正さ―二人称。 (3)「それ」の領域=科学技術、客観的性質、実証的形式(脳と社会システムを含む)―事実命題―個とシステムの客体的外形―三人称。 現実感覚の主観的側面、個人的な気づきは「私」の領域と呼ばれており、それにはあらゆる個人の内的意識体験が含まれると述べている。この基準では、「私」が感じ、認識するものすべてが「現実」となる。美的な感性もまた、この内的で個人的な意識の作り出した現実に属する。 これに対し、意識の内的な状態を客観的、外的にとらえた場合の現実を「それ」の領域と見なす。神経生理学や認知科学の研究者は、脳のメカニズムや神経細胞の信号伝達が意識を生み出すと考え、生命体に関する科学的事実に基づいて、意識を第三者的、客観的に説明しようとする。これもまた、一つの現実である。 さらに、主観的な現実が社会的なレベルで共有されるようになると、それが「われわれ」の価値領域になる。共同主観的な現実は、われわれの社会や文化の中で「望ましい」とされるモラルやルールの源になるし、個々人の主観を分かち合うことで、それが世界観や共通認識、社会通念に発展することもある。 ここで、ウィルバーは「フラットランド」という言葉を使って、行きすぎた科学主義的態度を批判している。フラットランドとは、人間の感覚とその延長(望遠鏡、顕微鏡、写真など)によって実証的に観測された物質/エネルギーのみが「現実」であるという信念(世界観)である。フラットランド的な世界観では、われわれの内的な経験や心理的な現実は、すべて客観的、外的な言葉で説明され、脳神経系などの物質的なプロセスに還元される。 フラットランドの問題点は、宇宙は基本的に物質(もしくは物質/エネルギー)から成り立っており、肉体と脳を含む物質的世界だけが科学によって研究できるとする態度にある。これが現代において支配的な科学的唯物論として知られる世界観である。 科学的唯物論は、「私」の言語や「われわれ」の言語ではなく、客観的なプロセス、単に科学的な言葉で記述されるすべてのものから構成される宇宙(universe)に関するものであり、それには意識、内的なもの、価値、意味、深み、そして神聖なるものが欠如している。ウィルバーに言わせれば、科学的な現実こそが唯一絶対の真実であるとする教条主義、独断的な態度が現代の病理に通じるというのである。・・・・・・ あとがき 私が四国に住むようになって十七年になる。大学教員として心理学の教育と研究に携わるかたわら、私は四国の異界に引き込まれていった。現在の職業は心理学者、もう一つの肩書は宮司である。 四国には四国霊場八十八カ所など、伝統的霊性に関わるスポットがたくさんある。民俗宗教の宝庫でもあり、昔ながらの祈祷を行なう拝み屋も大勢いる。私は超常現象や人間の意識の拡張、自己超越といったテーマを扱う心理学の分野で長年研究を続けてきた。その関係もあって、四国のシャーマン、霊媒を対象にフィールドワークを行なってきた成果が本書である。 学者というのは、基本的に、研究対象を外側から観察した出来事をつぶさに記録し、それにいろいろな角度から分析と解釈を加えて、得られた知見を理論やモデルに精錬していくのを仕事にしている。ああでもない、こうでもないと講釈を加え、議論し、理屈に理屈を上書きしていくのが学者の仕事である。 ところが、私はこれまでの自分の研究スタイルに疑問を感じるようになっていった。外側から観察しているだけでは、わからないことがたくさんあったのだ。これには少々いきさつがある。イギリスの超心理学者、ケネス・バチェルダーは、超常現象を起こりにくくする原因として、目撃抑制と保有抵抗の二つの「心理的原因」をあげている。 目撃抑制とは、超常現象が人の視線やカメラのレンズを避けるように見える傾向であり、保有抵抗は自分に「超能力」があることを認めようとしない心理傾向を指している。 バチェルダーは超心理学が心霊研究と呼ばれていた頃によく行なわれていた交霊会形式の実験を通じて、参加者の現場に臨むときの心理状態が「現象」の発生に大きな影響を及ぼしていることを明らかにした。 バチェルダーによれば、交霊会のときにテーブルの浮揚や物体の移動といった超常現象を意図的に発生させるためには、現場にいる人々が「超常現象が必ず起こるにちがいない」という信念をもつことが必要だと説く。しかも、その信念は現場にいると、だんだん超常現象が起こる気になった、といった一時的だが確信に満ちたものであればよい。要はその場に浸り込んでしまうことが重要なのである。 私は、そのような理由から「現場」に密着して、拝み屋たちと寝食をともにするようになっていった。そして、四国の呪術的世界で仕事をしている人たちの取材を進めていくうちに、彼らの活動に超常現象と思われる出来事が続発していることを体験的に理解した。本書で取り上げた「呪い」は、決して絵空事ではない。四国の呪術的な世界では、今でも日常的に呪詛は行なわれているし、その呪詛を解除する依頼も舞い込んでくる。このようなことを明言できるのも、私が現場と一体化した立場にあるからである。 私は、神道の修行に入り、平成十四年四月に、奥四国のある神社から資格を得て、神職としての活動もするようになった。私の修行した神社では霊的実践が重んじられ、礼儀・作法はもちろんのこと、呪術に関する一定水準の技能も要求される。祝詞を言霊として駆使できるようになり、真の祓いを行なうことが宮司としての責務であると教えられた。 これからも、心理学者として、また宮司として、日本的な霊性をテーマに実践的な研究を継続していくつもりである。 末筆になるが、本書を刊行するにあたって、トランスビューのスタッフの全面的な支援に心から感謝したい。特に原稿の隅々に目を通していただき、細かい修正を加えてくださった林美江さんには編集者としての匠を見せつけられた思いで、頭を垂れずにはいられない。 また、四国の拝み屋の人々の温情によって本書を世に出すことができたことも忘れることができない。命がけの信仰生活を送り、自分の身を削って仕事をしている彼らに、深く敬意を表したい。 平成十五年二月二十二日 伊予国にて 中村雅彦 |