松本俊彦さん 「自傷」患者への助言(4)精神科医療の限界

東京都小平市の国立精神・神経医療研究センターで

 ――自傷って現代病なのでしょうか? いつ頃から自傷行為は知られるようになってきたのでしょう。

 「自分で自分の体を傷つける行為は、実は聖書にも書かれているほど昔から見られる現象なんですよ。古くから様々な部族のなかで、病気の快癒祈願や魔除まよけなどの宗教的儀式の一環として、あるいはコミュニティの秩序を維持するための儀式として様々な自傷が行われてきたことがわかっています。例えば、ある未開部族では成人になるための通過儀礼として自傷が行われていたという報告もあります。要するに、自傷とは、一方で自殺に近い極があり、他方で祈りや誓いという、人間の文明や文化に欠かせない創造的で前向きな要素も含む行為なんですよ。そういえば、武士が昔行っていた血判状なんていうものは、まさにその『誓い』の部類に入るかもしれません。もしかすると、現代、自傷を繰り返す人たちのなかにも、そうした、自殺につながる部分と前向きな部分の両極を行ったり来たりしている面があるのかもしれません。つまり、一方で自殺したいという気持ちがあって行い、一方では自分の決意表明として行っているといった具合に。1970年代、80年代に、シンナーを乱用したりする非行少年たちの間で、火のついたたばこを肌に押しつける『根性焼き』を行うのがはやったことがありました。実はこれも立派な自傷の一種です。現代のリストカットと同じ意味でやっている人もいるし、自傷の痕が仲間を形成するという意味もある。過剰なタトゥーとかボディーピアスの一部も自傷の一種と言えますが、例えば20~30年前なら、タトゥーは裏社会のイメージですけれども、今はファッションとなっています。20年ぐらい前なら、耳たぶ以外のところにピアスをつけている人は、ちょっとやばいと感じる価値観があったと思いますが、今はちょくちょく見かけます。ですから、何が問題ある自傷なのかという軸は、時代や文化とともに変わってくるけれども、人類は古くからあらゆる方法で自分を傷つけることをしてきたということは言えるかもしれません」


 ――現在、問題となっている自傷はいつ頃から始まったものなのでしょうか。

 「現在の自傷のタイプの源流となったのは、1990年代に高校生で自傷をしていたインターネット上のアイドルでした。その人は、自傷したり、精神科の受診者として体験記を報告したり、薬物を乱用していることを書いたりしていたのですが、独特の鋭い感性があって、生きづらい若者の共感を得ていたのです。最終的に、高校を卒業した直後に自殺してしまったのですが、インターネット上に書いていたものが本にまとめられ、一部のマニアやジャーナリストが取り上げて、祭り上げることで流行したんです。2000年ぐらいになってから、私の診察室にも自傷する人がやってきて、『先生、この本を読みましたか』などと、しょっちゅう聞かれるようになりました」

 「2000年というのは精神科医療の曲がり角なんです。例えば、前年にSSRIという副作用の少ない抗うつ剤の発売が始まりました。それまで、うつ病はとても診断基準が厳しくて、患者数も少なく、精神科医は、抗うつ薬を出す時も副作用が強いだけに考えに考え抜いて、覚悟を決めて出す、という感じだったのですが、2000年くらいを境にそれまでよりははるかに気楽に抗うつ薬を処方できるようになりました。機を同じくして精神科の診療所の開設ブームもあり、患者さんが底あげされ、病気じゃないけれど生きづらさを抱えたリストカッターたちが、精神科に訪れるようになったのではないかと思います。彼らなりに自分たちの生きづらさに、『精神科診断』という名前を与えようとしたのかもしれません。そこで彼らはどういう目にあったかというと、リストカットは治療の対象とは見なされず、『パーソナリティー障害』の患者にしばしば見られる問題行動の一つとして捉えられ、『それをしたら治療はできない』という限界設定の条件として使われてしまったんです。その一方で、安易に処方薬が出された結果、体を傷つける代わりに嫌なことがあったら薬を飲むという対処法を学ぶ人も少なくなく、救急医療機関では過量服薬で搬送される患者が、薬物依存症の専門病院では処方薬依存症の患者が増えてしまいました。そういう意味では、自傷する若者と、精神科医療は、2000年以降、あまりいいお付き合いができていなかったと言えるかもしれません」


 ――逆に精神科は自傷を増やしてきたのですか。

 「そういう面も完全には否定できないという気がします。というのも、処方薬の乱用で酩酊めいていしている状態では、衝動的になりやすいし、痛みも感じにくいわけですから、傷も深くなりやすい。それを精神科でどうにもできないまま、ただ頭ごなしに説教を繰り返す。その頭ごなしの説教が自傷する若者にやり場のない怒りを生じさせて、ますます自傷をエスカレートさせる。おそらくこうした不適切な対応をしてきた精神科医の多くが、自傷とはどのような行為なのかを十分に理解できていなかったように思います。これは医者に限らない話ですが、自傷ってあまりにもありふれていて、そして手あかにまみれすぎています。ですから、ろくに勉強しなくてもわかった気になってしまっている、という援助者は少なくないように思うのです。そういう援助者の対応こそが当事者を苦しめているわけで、そこを何とか変えたいと思っています。なるほど、自傷経験者は若者の1割もいるわけですが、これを『大変な問題だ』と心配する人がいる一方で、『それって一種の流行だよね』と捉えられ、軽く見過ごされてしまうのが心配です」


 ――自傷というのは、いわゆる精神科の教科書でしっかり勉強する1項目というわけではないのですか。

 「今の教科書はわかりませんが、少なくとも2000年頃までは、自傷をきちんと取りあげている教科書はありませんでした。1970年代の終わりに、精神分析を行っている医師が海外で言われている概念を紹介したことがありましたが、その先生方は、精神分析学の理論にもとづいて、自傷を『手首の人格化』と名づけていました。手首を人格化して攻撃しているのだと。いわんとするところはわからなくはないですが、精神分析の門外漢には、たとえ専門家でも共有できない言葉でしたし、診察室で自傷を繰り返す患者さんを前にしたときにまったく役に立たない言葉でした。要するに、精神科医もよくわかっていなかったのでしょう。目の前で手首を切っている人をどうすれば助けることができるか考えなくてはならないのに、こんな自己満足的な抽象的な言葉で解説したってしょうがない。ともかく、教科書に書かれていた記述はせいぜいこんなところで、それを除けば、その行為の意味にしろ、具体的な対応方法にしろ、教科書にはほとんど記述がなかったといってよいでしょう」

 「私が研修医の頃も、指導医や上級医から教えられてきたのは、『自傷イコール境界性パーソナリティー障害によく見られる、周囲を振り回す、人騒がせな行動の一つ』という理解でした。そして、治療を始めるにあたっては、『治療中は自傷をしません』という約束をさせ、それを守れない人は治療しないという枠組みで診療することを指導されてきた経緯があります。その結果、境界性パーソナリティー障害と診断された人たちは、『招かれざる客』として、医者から治療を拒否される、いわば医療ネグレクトの被害を受けるようになってしまったように思います。しかしきちんと観察すれば、自傷する人が全員、境界性パーソナリティー障害かといえばそうとは限らず、多く見積もってもせいぜい半数程度でしかなく、その半数の人も数年後にはその診断が消えています。人の性格はそう簡単に変わるものではないですから、その意味で、そのパーソナリティー障害という診断自体もはなはだ怪しいといえます。こうした事実が明らかになるにつれて、海外の専門家のあいだで、『自傷イコール境界性パーソナリティー障害』と決めつけるべきではなく、また、たとえその診断に該当したとしても、『自傷がとまらないこと』『自傷せざるを得ない状況にあること』自体を治療の対象とすべきだという声が上がりはじめたのです。そして、そのような変化のなかで、自傷と向き合って治療に挑む人たちが出始めたわけです」

(続く)

松本俊彦(まつもと・としひこ)さん

 国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部長、自殺予防総合対策センター副センター長。1993年、佐賀医大卒。「自傷行為の理解と援助」(日本評論社)、「アルコールとうつ・自殺―『死のトライアングル』を防ぐために」(岩波書店)など著書多数。


2015年5月10日 読売新聞)

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